<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?><rdf:RDF xml:lang="ja"
	xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/">

<channel rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/feed">
	<title>BLOG - 天の窓がひらいたら</title>
	<link>https://10win.web.wox.cc/blog</link>
	<description>ふと上を見上げると涙は拭われ</description>
	<dc:language>ja</dc:language>
	<items>
		<rdf:Seq>
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry61.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry60.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry59.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry58.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry57.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry56.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry54.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry53.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry52.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry51.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry50.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry49.html" />
							<rdf:li rdf:resource="https://10win.web.wox.cc/blog/entry48.html" />
					</rdf:Seq>
	</items>
</channel>

	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry61.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry61.html</link>
		
				
		<title>再生の時</title>

		<description>世界に愛が沈み絶望が影差すとき
ながら…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 世界に愛が沈み絶望が影差すとき
ながら見(※)の社会に一石が投じられる
決して目を離すことなきよう
神は自身の存在を永遠の愛の姿にのせて現される
背教　暗闇　世俗化　欲望渦巻く社会に飲み込まれて
偽りの豊かさに心奪われた聖徒達も
失われた時と世に奪われ失った
神の豊かさと麗しさに
涙を流し自らの汚れ爛(ただ)れた歩みを見
ただ悔いくずおれる
変わらぬ血潮の温かさと懐かしい愛に
無代価のただ注がれ続ける愛に
我を忘れた我を探し伸べ続けられた
その釘痕残る御手から溢るる愛に
我が心粉々に砕かるる
こぼれ落ち止まらぬ涙をその手はぬぐい
頬触れる温もりが我が心洗い新たにする
我が目はこれほどに地を這いずり回り
惨めに闇に飲まれていたのか
彼の愛はこれほどに高く揚げられ輝いていたのか
目を撃つ聖なる聖なる光輝きが眩しく懐かしい
この涙をただ地に流し染み込ますのみでなく
この涙を以てこの愛の訪れを叫ぼう
まだあなたは絶望するにあらずと
かの(彼の)愛を見よと

【創世記3:6-10】
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。


※ながら見＝スマホ片手に日がな一日、正面から事物を捉えるのではなく、斜めに小賢くスマートに社会をまた日常生活を生きようとする人々の姿
 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>詩集</dc:subject>
		
		<dc:date>2018-07-18T01:30:20+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry60.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry60.html</link>
		
				
		<title>互いに愛し仕える</title>

		<description>【ヨハネ13:1-17】
13:1 過越の祭の前に…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【ヨハネ13:1-17】
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
13:12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13:13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
13:16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
13:17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。

ここに、教会において兄弟姉妹が互いに愛し合うことの、本質について語られています。
つまり、主が私達をどのように愛し、また私達が互いにどのように愛し合うことを、主が望んでおられるのかについて。
互いに愛し合うことを言葉にしたり、行動にしたりすること、教会において、それは見える形でわかる、クリスチャンらしさであり、信仰者のわかりやすい姿であると言えるでしょう。
また、そのように考えるべきであると、考え、あるいは教え、語り、教会が愛で溢れるように、努力することも、必要なことに思えるかも知れません。
しかし、ここにある主の思いはそのような「せねばならない」「あらねばならない」愛ではありません。
それは、親が子を慈しむような、あるいは本当に親しい友に大切なことを伝えるような、つまりは無理に注ごうとするのではなく、心の底から溢れ出て止まることのない愛であり、この愛を何か評したり、誇ったりするようなことのできない、最も純粋な愛の姿です。
そして、主はご自身が十字架にかかられる前夜、この大切な時を共に持つことを、切に願われていたのです。
それはご自身のこの最も純粋で深い愛について、ご自身の命をも友のためにささげようというほどの愛を、彼らにどうしても伝えたかったのであり、またそのような愛をもって互いに愛し合うことを、主が望んでいることを知って欲しいと願っていたからに違いありません。

【ヨハネ15:12-14】
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

そして、その愛をもって互いに仕え合うのが教会であるということを、身をもって現されました。
当時足を洗うことは奴隷の仕事でした。
ですから、主イエスがしたことは弟子達にとっては考えられないようなことであり、だからこそペテロは、主がそのようにされることを拒もうとしたのです。
しかし、その愛を受け取らなければ、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる(ヨハネ13:8)」と言われたのです。
それこそが教会における兄弟姉妹の互いに愛し合い仕え合う姿であり、それがなければ、同様に教会は互いに何の関係もなくなってしまうからです。
それも、奴隷に等しき最も低い者として互いに愛することを、主は願われました。
それは、足こそは人の最も汚れるところ、最も汚いところ、傷つき痛むところ、重荷を負い疲れているところであり、兄弟姉妹の最も罪で汚れ、傷つき痛み悲しみ、人生の重荷に押しつぶされているところには、最も低い者としてでなければ、向き合い、触れ、慰め、重荷を共に負うことはできないからです。
そのように互いを受け入れ、愛し合い、仕え合うのが、主が切に望む兄弟姉妹の姿だったのです。
これは非常に私達の愛の動機と純粋性を探る難しいことです。
なぜなら、本当に愛していなければ、そのようなことはできないからです。
そして、私達にそのような愛はないことを自分がよく知っている。
だから、主は私達の足を最も深い愛をもって、洗ってくださった。
この方が最も低い者として、私の汚れ果てた罪を十字架に流された血潮で洗い、その打ち傷をもって私の傷を負い、悲しみの人となって私の全ての悲しみと、押しつぶされる人生の重荷を、十字架の重さと共に負ってくださった。
さらにその愛をもって、日々世に出て汚れる、苦しみ、傷つく、私達の世との接地面である足を、いつもその十字架の血をもって洗ってくださる。
その止めどなく注がれ溢れる続ける主の愛を私達は知っているのです。
だから、この方の愛ゆえに、この方の愛する者をどうして愛さずにいられましょうか。

【ヨハネ5:1-3】
5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。

このとき「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(ヨハネ4:12)」の言葉は成就し、神の完全なる愛の現れとしての教会を人は見ることになるのです。

【ヨハネ13:34,35】
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

これこそが愛による勝利です。
世は互いに党派心を持ち、互いに高い者となり、互いを支配しようとし、争い、憎しみ合います。
そのような者に、高い場所からの支配を与えるのはサタンであり、しかしその支配を受け取ってしまった者の結論は滅びであり、敗北です(詳しくは9/21のメッセージをお聞きください。)。
しかし、主イエスは愛する兄弟姉妹達に、そのようなものではない、主イエスが私達に注いだ愛を基とした、教会によって全うされた愛を世に見せつけ、完全なる愛による勝利を現したいのです。

【1ヨハネ4:18,19】
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
4:19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

私達に、この愛がなくとも、我が内に住まうキリストこそ「神は愛である。(ヨハネ4:8)」と言われる神に他なりません。
この方の愛が内にある限り、私達の愛は真実なものへと成長します。
だからこそ、主の注がれた愛をしっかりと受け止め、主を愛する愛をゆっくりと育み、やがて命をもささげて、なお余りある全うされた愛をもって、互いに愛し合う主イエスの切望される教会へと成長していこうではありませんか。

【雅歌8:4,6,7】
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
　［中略］
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。

主の切なる願いに心合わせ、共に、私達の内に主の愛が溢れ全うするよう祈って参りましょう。

 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2017-08-23T08:56:53+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry59.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry59.html</link>
		
				
		<title>完成された勝利に生きる</title>

		<description>【1コリント15:55-57】
15:55 「死は勝利…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【1コリント15:55-57】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

主イエスキリストが与えてくださる勝利は私達が自分の手で勝ち取る勝利とは全く別次元のものです。
多くの人々にとっての勝利とは、自らの知恵や力を用いて、あるいは協力するなどして、結果として敗れる可能性のある戦いを戦って得るものです。
人の力には圧倒的な差というのはなかなか発生するものではありません。もちろんときにはそうしたことを味わうこともあるかも知れませんが、常にそのような勝利をするというものではありません。
ですから、敗れる可能性に恐れながらも、勝利のために自らを奮い起こし、あるいは全身全霊をもって、この戦いに望みます。
精神的にも勝利に集中し続け、あるいは何度も勝利をイメージし、心にそれを集中して刻みつけるようにしながら、毎日をそのために過ごしていく。
だからこそ自分に負けないという言葉のもと、自らを鼓舞して戦いに向かっていくしかない。
そこまでの努力や、積み重ねた日々重みが、勝利を得たとき、自らの達成感と共に、自らの栄光として帰ってくる。
これが世にあるところの勝利者でしょう。
この世においては、このように自らを注いで、あらゆる面において勝利を得ていく者を、人生の勝利者と呼び、賞賛の対象とし、理想として崇め、自らがそのようになりたいと思いながらも、現実は勝利でき切れない生活の中に生きていると考えている方も多くあるのではないでしょうか。
これが理想と現実のように。

【詩篇39:4-7】
39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。[セラ
39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

しかし、それらは人が力を失えば、また何か一つの歯車が狂ってしまえば失ってしまう勝利。
すぐにそれは幻と消え、過去の栄光と言う名の下に、移ろいゆく影のようにやがて全てが消え去って、その栄光があったことすら人々が覚えていることはありません。
何と儚い勝利を人は、追い求め、賞賛していることでしょうか。
ですから、主イエスキリストはこのようなことを決して勝利とは呼んでいません。
また、主は私達にそれを要求されているわけでもないし、そのような生き方を勝利者の生き方と呼ぶこともありません。
主イエスが与えてくださる勝利は、すでに完成された勝利です。
そしてこの世に対する完全な勝利であり、またこの戦いは私達の何かに任せられているのではなく、主イエスが勝ち取られたただ一度の完全なる勝利によって、全てが勝利の内に飲み込まれ、完成したという勝利です。

【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

【1ヨハネ5:4,5】
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

つまり、主イエスキリストはただ一度十字架にかかられ、このことにより、主は世に勝ち(ヨハネ16:33、1ヨハネ5:4,5)、サタンに勝ち(ヘブル2:14,15)、肉に勝ち(ガラテヤ5:24)、罪に勝ち(1コリント15:55)、死に勝たれた(1コリント15:55)のです。
そう、私達の生きる全てを脅かしてきた死にすら完全に打ち勝たれた。
ですから、この世にある、あらゆるものも、私達を恐れさせることはできません。
主イエスキリストは十字架によって、私達を取り巻くありとあらゆる事に勝利をおさめられた(ローマ8:35-39)のです。
これにより、この十字架の下に来る者(私達)に、この圧倒的な勝利を与え、さらにはこの勝利によって、何を勝ち得られ、何を完成されたのかを見せてくださるのです。

【黙示録】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

主イエスは今、私達を主ご自身の幕屋として、その内に住まわれ、永遠に離れることなく私達と共にいてくださるのです。
もはや涙を流す必要はありません。
死も、悲しみも、嘆きも、痛みも、主が私達の死に打ち勝たれ、全てに打ち勝たれ、よみがえられたのです。
そして、私達をこの地にいながらも、主が私達に与えてくださった新しい命、神の国をつぐことの証印としての聖霊(エペソ1:13,14)によって、この天の御国、完成された新エルサレム、永遠の都に、入らせてくださるのです。
これは絵空事でも幻でもありません。
この事実があなたが救われた時に与えられた絶対的な平安であり、あなたはそのときから、この永遠の都に住まう素晴らしさを霊の内に知り、喜んでいたのです。
さらには、主がおられるのであれば何があろうとも平気である感じられたあの平安は、全てに勝利を、あなた自身がすでに得ていた確証であったのです。
すでに勝負は済んでしまっていたのです。
あなたの戦いは主がすでに戦い、勝利を完成していてくださっていたのです。
あなたはこの勝利に基づき、十字架の下に、このキリストの流された血の契約により、全ての面、全ての事において、勝利を受け取る歩みを進めればよいだけなのです。
なぜ、敗れたかのように悩んでいるのでしょう。
なぜ、失ったかのように悲しんでいるのでしょう。
なぜ、世にあるものに怯えて、恐れの内に閉じこもっているの必要があるのでしょう。
なぜ、人生に絶望することがありますか。
勝利を味わう人生は、すでにあなたの内に来ているのです。
この十字架にある勝利の確信は初めから私達に与えられており、この確信において、全てのものを受け取ればいいのです。
天に於いて完成したものは、必ず地に於いてその完成は現れます。
あなたのすでに天に於いて受け取ったものは、地に於いて必ず現れるでしょう。
恐れる必要はないのです。

さあ、主イエスキリストにあって、勝利者としての歩みを始めましょう。

※メッセージで引用した聖書箇所です。ご参照ください。

【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。

【ガラテヤ5:24】
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

【ローマ8:35-39】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(新改訳では「圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。)
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2017-04-27T19:41:07+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry58.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry58.html</link>
		
				
		<title>新しい命の感覚</title>

		<description>【エペソ4:30】
4:30 神の聖霊を悲しませ…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【エペソ4:30】
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。

新しい命として与えられ、私達の内に住まう神。栄光の望みである、私達の内にいますキリスト(コロサイ1:27)。
神の測り知れない力を持つ土の器の中にある宝(2コリント4:7)。
この一方的な恵みである、人知を超えた奇跡、神が私達の内に住まうということが今まさになされている。
私達はこの恵みを本当に知っているでしょうか？
この奇跡を実感しているでしょうか？
今日の聖句において、重要な一つのことが語られています。
聖霊には感情があるのです。だから聖霊は悲しむ。
そして、私達はこの聖霊の思いを知ることがゆるされています。
それはキリストの思いを知ることでもある。

【1コリント2:10-16】
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

主の思い、聖霊の思いを私達は、私達自身の思い、心とは別に私達の内に感じることができます。この聖霊との交わり(2コリント13:13)。ここに御霊に導かれる歩み(ガラテヤ5:16-18)があります。
主が何を喜ばれ、何に怒り、何を悲しまれるのか。第一に私達はこのような形で主の思いを知り、主に導かれるのです。
もしも、この主の思いを知りながら、自分の思いを優先し、この思いを退け、逆らうならどうなるでしょうか？
聖霊は悲しまれるのです。
このとき私達の心は神に逆らい、神から離れようとしているからです。
ここに罪の感覚が存在します。
この状態を放置し、主の思いを無視し続け、主を悲しませ続けることは、自らの自由(放縦)を求める思いの前には簡単のことです。
しかしこれは非常に危険なことです。
なぜなら、この聖霊の語りかけを無視し続けるなら、私達は無感覚になり、主を悲しませることを何とも思わず、何でもできるようなり、罪を犯し続けてしまうからです。

【エペソ4;17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

ですから、この聖霊を悲しませるという感覚、聖霊の警告を無視すべきではありません。
その人はせっかく救われたのに、自らの足で永遠の滅びに日々近づこうとしているからです。
そして、その感覚は、逆らえば逆らうほど無感覚になっていくという恐ろしいもの。実はそれ自体がさばきであるのです。

【ルカ12:10】
12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

聖霊は、私達と神との直接の交わりを与えてくださる神の奇跡です。しかし、これに逆らい続け、拒み続けるならば、もう神の元に戻るための道を自らが閉ざすことになるのです。
この聖霊を受け入れたところから、私達の救いが始まったのなら、この聖霊を拒絶することは救いを拒絶し、滅びを日々決定づけるものとなるのです。
これが罪を犯し続けること、聖霊をけがす罪という恐ろしいことの結論です。
私達が聖霊を悲しませることは、とても小さく、簡単にそれを踏み越えることができるでしょう。
主は私達をゆるしてくださると、「これくらいはゆるしてください」と言いながら、簡単に神に罪への妥協を要求します。
しかし、主は私達の罪を悔い改めるなら、つまり神へと方向転換するなら、犯した罪はゆるされるのであり、決して罪を犯し続ける者を無条件にゆるされるわけではありません。
そのままゆるしを得ず、犯し続けた罪の、罪から来る報酬(ローマ6:23)は永遠の滅びであることに何の変わりはないのです。
ですが、このようなことのために私達は新しい命(聖霊)を受けたのではありません。
聖霊はやがて私達の体が全く贖われる日(ローマ8:23)に向かって、私達を証印として導くものです。

【1コリント】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

内なる聖霊のこの感覚は私達に神の国を継がせ(エペソ1:13,14)ます。
私達に朽ちないものを着させるために、キリストの花嫁として神の国に永遠に住まうにふさわしい者とするために、聖霊は私達を導くのです。

【2コリント】
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

ですから、主を悲しませることを求めるのではなく、主を喜ばせることを望んで歩み続けましょう。
そこには私達の肉の目には見えないけれど、霊の目には後の日の栄光を見続け、その栄光を求め続けて歩む栄光の歩みが広がっているのです。

【2コリント】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

今この主の思いに無感覚になっている兄弟姉妹がいるならば、主イエスの十字架の前に悔い改めて、主が喜ばれない全てのことを(罪を)、ひとつひとつ退け、取り除き(聖別)、主が喜ばれることをひとつひとつ選択して歩むように日々を変えていきましょう。
罪を求めるのではなく、主の栄光を求める生活を建て上げていきましょう。
主にあわれみを求めて共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【コロサイ】
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
【2コリント4:7】
4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
【2コリント13:13】
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。
【ガラテヤ5:16-18】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
【ローマ6:15-23】
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2016-11-24T12:33:04+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry57.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry57.html</link>
		
				
		<title>始めの日に</title>

		<description>【出エジプト12:1-20】
12:1 主はエジプ…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【出エジプト12:1-20】
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。

聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
（新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ（年の頭の意）」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。（民数記29:1）」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。）
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。

【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。

【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。

あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。

【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2016-08-22T22:56:23+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry56.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry56.html</link>
		
				
		<title>心の思いを主にゆだねる</title>

		<description>【ピリピ1:6】
1:6 そして、あなたがたの…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【ピリピ1:6】
1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。

全ての良いわざは主から始まり、主により完成します。
私達の何ものかによることはありません。
私達の思いつきも、主の元に持って行くのでなければ、それが主からのものであるのか、自分の思いからなのかもわかりません。
そのことが主が望まれることなのか、主が喜ばれるのか、それともそうではないのかもわかりません。

【箴言19:21】
19:21 人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。

そして、全ての動機がどこにあるのか、そのことはとても重要なことです。
それは自分自身の満足のためのものなのか、主の満足のためにそれを願うのか。

【2コリント5:14,15】
5:14 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

もちろん主の満足のみを求めると言っても、自分に喜びがあってはいけないという意味では全くありません。
主の喜ばれることを私達が願うとき、私達の心の内は主の喜びで満たされ、平安が満ち溢れるからです。
しかし、逆に自分を満足させるために神の名を使い、神のためにそれをするかのように大義名分を作ることを人はよくします。
残念ながら、そのような偽りを主が見逃されることはなく、また喜ばれようはずはありません。

【マタイ7:21-23】
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

その動機が神だけの目的のものであれば、それが自らの手から離れても喜ぶし、また多くの人に賞賛されることなく、むしろ神の目だけを喜ばすものであっても、それを望むでしょう。

【マタイ6:1,4】
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
　［中略］
6:4 すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

それがたとえ人の目には無駄に見えたとしても、神が喜ばれることのために自らの全てをささげることになっても、そのことを喜んで行うことでしょう。
(マリヤの香油,マタイ26:6-13、2枚のレプタ銅貨の寡婦,マルコ12:41-44、十字架,イザヤ53:2-6)

主は人の心の全ての奥底までをご覧になられ、その計画が主の思いにかなうものなのかを見極められます。
また人の思いを主の思いにかなうものとなることを願い、私達をその心ごと、思いごと導かれます。
だから、主はそのような人の心の全てをご存知で、その計画の全てを主の御手にまずゆだねることを願われるのです。

【箴言16:1-3】
16:1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
16:3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

ここから神の良いわざが始められます。
この方が始められた以上、その全ては必ず神の手により完成されます。
なぜなら、神は「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。(黙示録21:6)」と言われる方であり、この方が「事はすでに成った。(黙示録21:6)」と言われ、全てを完成されたからです。
この方を初めとするのであれば、主がその終わりを完成されるのです。
その過程において、人がどのように関与するとか、人の努力をどれほど必要としているとか、現実がどれほどその完成への道のりからかけ離れているように見えるとか。
そのようなことは一切関係がありません。
人はそのような目に見えることに心揺れ動き、その計画の完成への確信を揺らがせることがありますが、
全ては主が完成してくださるのです。
もちろん、この行程において、私達が何かしらの形でこの計画に参画し、その全行程を見ながら主の素晴らしさを仰ぎ見続ける、そのような光栄にあずかることもあるでしょう。
でも、主が私達に見せたいのは主の力、主の愛、絶大なる主の素晴らしさ、麗しさ、その栄光そのものであり、主は、愛する者にはこのようにするのだと、この全地にその絶大なるわざを見せつけられるのです。(エペソ3:8-11,17-21)
だから主は取るに足りない私達のうちに良いわざを始められ、ご自身の手によって、主が再びこの地に来てくださるその日までに、全てを完成してくださるのです。
そしてまさにそのとき、私達はこの地に「キリストと共に栄光のうちに現れ(コロサイ3:4)」、全ては主が完成してくださったわざに他ならないのに、私達の行いをもって、主は私達に報いを与えてくださるのです。

【エペソ6:8】
6:8 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。

【2コリント5:9,10】
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

だから主は私達にみこころのままに志を立てさせ、全てを完成に導いてくださる(ピリピ2:13)のです。
なんと素晴らしい、主のみわざ。
なんと麗しき主の栄光。
なんと大いなる主の愛。
それは主が私達をご自身の助け手として、キリストの花嫁として召されたからなのです。
主はご自身のみわざを、私達を通して現されることを喜ばれるのです。

さあ、臆することなく主の前に出て、心の内の全てを主にゆだね、主の喜びと栄光を求めて、祈って参りましょう。
ただ、主のみこころのみが全地になりますように。

※メッセージ内の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ26:6-13】
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、
26:7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。
26:9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
26:10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
26:13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

【マルコ12:41-44】
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

【イザヤ53:2-6】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

【エペソ3:17-21】
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

【エペソ3:8-11】
3:8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
3:11 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

【コロサイ3:4】
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

【ピリピ2:13(新改訳)】
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-06-11T11:47:50+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry54.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry54.html</link>
		
				
		<title>天の賛美に入れられる時</title>

		<description>【詩篇48篇】
コラの子の歌、さんび
48:…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【詩篇48篇】
コラの子の歌、さんび
48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。
48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを高きやぐらとして現された。
48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。[セラ
48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちであなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。
48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。
48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

神を喜び、主を賛美する者は、やがてその喜びに満ちた賛美の内に、ある所にたどり着くでしょう。
その賛美の中心地、賛美が永遠にとどまることなく、その中心には主ご自身が居られる場所。
永遠の都、聖なる都、新エルサレム。
そして、この都の内にいる者は地上のエルサレムが山に囲まれた堅固な要塞であるように、主の永遠の統治の内に、主ご自身が「火の城壁(ゼカリヤ2:5)」となり私達を囲み、ご自身の栄光でその内を満たされるでしょう。
主こそ我らのやぐら(詩篇18:2)となり、私達をあらゆる危険から常に守られるのです。
これに挑もうとする如何なる者もこれに太刀打ちできません。
その心は都を見るや主の恐れと、都に現された主の力と栄光を見て恐れ、急ぎ逃げ去るのです。
そして私達はこの絶対的な安全な場所、何ものにも揺るがされることのない主の宮のうちに、主のいつくしみを思い、絶え間なくその唇は賛美が溢れ出る。
この賛美は地の果てにまで溢れ出て多くの聖徒達も同様に祈りの内にこの都で賛美をささげ、それが全地を覆っているのがわかるでしょう。
まさに主の永遠の都は今ここにあり、永遠の神の国においては、やがて来るべき神の都は霊に満ちる祈りの内に現れ、圧倒的勝利の内に完成している（ヨハネ19:30,黙示録21:6）のです。
その勝利はこの地を飲み込むほどのもの。私達を取り囲んでいた困難も悩みも問題も全てはこの中に飲み込まれ主の勝利の内に全てが最善の形で完了してしまう。
私達の賛美とは、祈りとは、礼拝とは、そのようなものです。
つまりは私達は、主にひたすらに心を向け、神を信じ、この方の良くしてくださった事を何一つ忘れず、数え、ほめたたえ、また今私達が直面するあらゆることにおいても、主に願い求めるのなら必ず主が報いてくださる(ヘブル11:6)ことを信じ、主をほめたたえるなら、この宮の内に、都の内に私達の賛美は、祈りは、引き上げられる。
そして、天にある礼拝(黙示録4,5章)の内に自分も入れられていることを知るでしょう。
それは神の子羊の御前、永遠の勝利者であられる方の前に集うものであり、この場所から全地の裁きが下ることを知るでしょう。
ここにすべての勝利の源たる方が居られ、神の義により正しく裁きがなされている。
私達は、この王なる方の花嫁とされているのです。
私達を取り囲むあらゆることを超え、死を超えて、この主の御前に主だけを求めて、主への賛美の内に出るとき、主は金の勺をもって、あなたの願いを、あなたの名を呼び聞き入れてくださるでしょう。
「何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう(エステル5:3)」と。
だから、私達は主をほめたたえ得ないと思われるような状況に於いても、主をほめたたえ、主の御前に出るのです。
この方はあなたを愛し、私達が何ものを頼りとせず、主だけを愛し、この主だけが素晴らしき方と近づくのを、けっして無にされる方ではありません。
あなたを愛して止まないゆえに、勝利と恵みに満たして余りあるものとされるでしょう。
だから私達はなおさらに主をほめたたえ、「主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめる(詩篇27:4)」ことを永遠の望みとするでしょう(詩篇48:12,13)。

だから主を喜ぶことは私達の力なのです(ネヘミヤ8:10)。
「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにし（ヘブル12:12）」、しっかり立って、
今日も、主の素晴らしさを仰ぎ、賛美しましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ2:4,5】
2:4 言った、「走って行って、あの若い人に言いなさい、『エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。
2:5 主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。

【詩篇18:1-3】
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

【ヨハネ19:30】
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

【ヘブル11:6】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【詩篇27:4】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

【ネヘミヤ8:10】
8:10 憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

【ヘブル12:11,12】
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-05-13T14:35:30+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry53.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry53.html</link>
		
				
		<title>主を喜ぶことは</title>

		<description>【詩篇100篇】
感謝の供え物のための歌
…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【詩篇100篇】
感謝の供え物のための歌
100:1 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
100:4 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

主が私達の神であること、これに勝る喜びはありません。
この方を神とすることは、「わたしは有る(出エジプト3:14)」という方を私の神とするということであり、私の根源(創造主)とするということです。
それは私達を、主に造られた被造物としての本来の位置に、安息させるものです。(全てのものは本来あるべき場所に収まると安心するものだからです。)
常に「有って有られる方(出エジプト3:14)」。永遠に現在に有られる方。この方が万物が有るということの根源であり、この方を神とするということは私自身の存在を、この神の元に永遠に有る者とするということです。
それは私達の存在が永遠に保証されるというものです。これほどに、心に平安を与えることは他にないでしょう。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

誰でも自分の存在できる場所を求めてさまよい、存在できるために努力し、葛藤する。それがこの世の常であるのに、主を神とするということは、それだけで平安が満ち、その渇望を充分に満たしてあまりあるものとなるのです。

またこの方が神(創造主)であるということは、万物が主のものであるように、私達自身も主のものであるということです。
つまり、この方を我が神とするということは、この方の民となるという事であり、もっと驚くべき事に、主イエスの贖いが成し遂げられた現在においては、この方の子、神の子とされるということなのです。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

これが私達の喜びの根源です。
この喜びは世が与えるいかなる悦びとは異なります。
この世の悦びは私達の状況が変われば消え失せるものです。
その悦びの根源となっている事自体が、消え失せる朽ちるものの上に成り立っているのですから、それははかなく消え失せ、移ろいゆくものであると言わざるを得ないでしょう。
この悦びを集めて、幸せな人生を築こうとするなら、人は簡単に絶望の中に身を沈めます。これが世の与えるものです。

【伝道者1:2-4,12:13,14】
1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
　［中略］
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

しかし、私達が主を神とし、この方自身を私達の喜びの根源とするとき、主に与えられた私達の命は、内側から喜びの声を上げ、その喜びは賛美となって主をほめずにはいられないものとなるでしょう。

【ローマ14:17】
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

そのほめたたえる声はもうとどめることはできません。
やがて、大きな大きな賛美となって、私達は天の主の宮の大庭で、とどまることのない賛美をささげ続けるため、集められる。
地の教会はそのようにとどめることのできない賛美をささげ続けるために集まり、各々に与えられた喜びは溢れ溢れて、大きな喜びとなってその全体を満ち溢れさせるものとなるでしょう。

【詩篇100:4,5】
100:4 主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

さらにその喜びは主への感謝とそのみ名をほめたたえて、世代を越え、地域、空間を越えて溢れ、多くの造られた者達に主をほめたたえさせるものとなるでしょう。

【詩篇150:6】
150:6 息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。

だから、今主の甘き御名を呼び、主を喜び、賛美することを始めましょう。
どんなに小さな声からでも、いいのです。
この喜びはやがてこのようにとどめられることなく、全地を覆う賛美となるのですから。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-04-08T23:28:34+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry52.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry52.html</link>
		
				
		<title>ただ主の望むこと</title>

		<description>【申命記10:12-16】
10:12 イスラエルよ…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【申命記10:12-16】
10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
10:14 見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
10:15 そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私達がなぜ主に選ばれ、救われたのか、その理由は全くわかりません。
おそらく、その理由は永遠にわからないでしょう。
私達に何らかの理由があって、神が救う価値があるとして救われた。
そのようなものは、私には何も見当たりません。
私には主を喜ばせるものは何もなく、むしろ生来の性質は、常に主に逆らい、甚だしく悪しき罪に汚れた罪人。主から離れ、自分の事のみに没頭して生きてきました。
神に愛されることなど知りもしませんでしたから、神を愛することなど到底考えもしませんでした。
私の迎えるこの一日がすべて自分の力で支えられていると信じ、そのすべてが神の恵みによって支えられていたことなど露も知りませんでした。

そんな私を主は愛してくださいました。
それは主からの一方的な愛でした。
主はそんな主も知らず逆らうだけの何の価値もない者を、何の得もないであろうに救ってくださったのです。
天地万物のすべては主のものです。
この方がすべてを造り、そのすべてを今も、また永遠に統べ治めておられます。
そんな壮大な想像すらつかない方が、その持ちゆるすべてのものを置いて、あたかも私が主のものでなければ、それらのものが何の意味もなく、何の価値もないかのように、私のために地に下られ、ご自身のすべてを私にくださいました。
その命までも。
神の御子である方の命という絶大なる価値ある犠牲(十字架)に、私など見合うものではありません。
なのに主は、「今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。(申命記10:12)」と言われるのです。
「ただこれだけ」です。
私が主を愛さなければ何の意味もないかのように、主は「あなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。(申命記10:12,13)」と言われるのです。
それも、私が「さいわいを得る」ために、なのです。
どうして、そんな主を愛さずにおれましょう。
ただ一方的にこれほど愛してくださった方に答えずにおられましょう。

【申命記10:16】
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私のすべては、そしてこの命は主のものです。
私は永遠に主よ、あなたを愛します。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-03-27T13:27:27+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry51.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry51.html</link>
		
				
		<title>戸をたたく音</title>

		<description>【黙示録3:20】
3:20 見よ、わたしは戸の…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【黙示録3:20】
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

この御言葉は驚くべき事に、神を信じない者にではなく、クリスチャンである、七つの教会の一つに語られています。
「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。(ヨハネ14:23)」と言われる主イエスが、私達の内に住まうのではなく、「戸の外に立って、たたいている(黙示録3:20)」のだとしたらどのような状況だというのでしょうか。
私達は救われた時、救い主であるイエスキリストを信じ、受け入れたはずです。つまり、私達の内に主をお迎えし、主は私達の内に住んでくださっている。また同時に教会の内にご臨在される方のはずです。
その方が戸の外に立つと言うことは、すでに主イエスが私達の内から、また教会の内から、外に出されてしまっているということです。
何と悲しむべき事でしょうか。
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(ピリピ2:21)」とある通り、私達の各々の事情は主イエスを私達の心の内から閉め出すのです。

【創世記3:6-11】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

このことは、アダムとエバがサタンの誘惑に会い、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われ(創世記3:6)」る実を食べたのと同様に、
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇(1ヨハネ2:16)」に惑わされて、「世と世にあるものとを、愛して(1ヨハネ2:15)」、主から身を隠し、父(神)の愛を退ける(ヨハネ2:15)ことであり、
アダムとエバがエデンの園に住まいながら、主を退けたために、自らをエデンの園から退けてしまったのと同じ過ちを繰り返すこととなるのです。

【ルカ14:16-24】
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

主が再び来られる終わりの時は、その反対に神への愛が冷め、各々自分の事に心を奪われ、神を閉め出し、せっかく招かれた婚宴にあずからないという、教会の本来の目的を完全に見失い、世の友となり、またサタンの友ともなり、神の敵となりさがった(ヤコブ4:4)教会の姿をここに見ることができます。
何と恐ろしく愚かなことでしょうか。
しかし、彼らは主が来られる直前まで世を謳歌し、「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っている(黙示録3:17)」者達となるでしょう。

【ルカ17:28-30】
17:28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。

しかし、主が来られる日はその婚宴に入れられる者には最も幸いの日となるとしても、それを退ける者には裁きの火の中で、主に退けられ絶望の内に投げ出される日(ルカ13:24-27)となることでしょう。
残念なことに、多くのそのようなクリスチャンは主が来られる日ははるか先の事のように認識(1ペテロ3:3,4)し、自分の生きている間にはそのようなことはないであろうと考えます。
しかし、私達は明日生きているのかどうかもわからない「消え行く霧にすぎない(ヤコブ4:14)」存在です。
もし、明日にでも私達が死を迎え地上を離れるようなことがあれば、主イエスに再びお会いするのは明日ということになるではありませんか。
携挙を明日来るかも知れぬと待ち望むことは、個人においては明日にでも主にお会いすることになるやも知れぬと、備えを今するように生きるということでもあります。
主への愛が冷め、主を退けることがいかに主が悲しむ事であり、また愚かで恐ろしいことであるのか、私達は認識を新たにし、目を覚ます必要があるのです。

【雅歌5:2-8】
5:2 わたしは眠っていたが、心はさめていた。聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者よ、あけてください。わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪の毛は夜露でぬれている」と言う。
5:3 わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。
5:4 わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。
5:5 わたしが起きて、わが愛する者のためにあけようとしたとき、わたしの手から没薬がしたたり、わたしの指から没薬の液が流れて、貫の木の取手の上に落ちた。
5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
5:7 町をまわり歩く夜回りらはわたしを見ると、撃って傷つけ、城壁を守る者らは、わたしの上着をはぎ取った。
5:8 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓って、お願いする。もしわが愛する者を見たなら、わたしが愛のために病みわずらっていると、彼に告げてください。

愛する主があなたの元にその溢れるほどの愛を持ってあなたを迎えに来られる時、あなたを呼び戸をたたく音がしても、この世で生きることに馴染んで、戸を開けることに躊躇し、この世への未練と、この世の教える常識の中に眠り続けることを望むならば、主は悲しみと共に去っていくことでしょう。
そこに残されるのは、あなたのために、十字架に自らの命をささげた主の死(没薬)の事実とそこに主がどれほどにあなたを愛したのか、注ぎ続けた主の愛のみであり、それを退けてしまった自らの愚かさへの言いようのない絶望感でしょう。
そして、残されたこの世では迫害の波の中、主を選んで殉教するか、主を捨てて背教し、永遠の滅びを選ぶかしか存在しない時代に生きることとなるのです。
だから、主はここに私達に対して警告し、主の再臨を退ける前に、主の愛に目覚めるよう勧めています。
主への愛のために病みわずらうほどに、主にお会いすることをこい慕い、この地で離れていようとも主を待ち望む。
あなたの愛は目覚めているでしょうか。
この地の生活に埋もれ、
主があなたに注いだ初めの愛から離れてはいませんか？

【黙示録2:4,5】
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

※今回の聖書の引用箇所です。ご一緒にご参照ください。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

【黙示録3:14-22】
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

【ヤコブ4:4】
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

【ルカ13:24-27】
13:24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
13:25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
13:26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
13:27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。

【1ペテロ3:3-10】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

【ヤコブ4:14】
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-03-24T07:59:21+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry50.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry50.html</link>
		
				
		<title>小さく賢いもの</title>

		<description>【箴言30:21-28】
30:21 地は三つのこと…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【箴言30:21-28】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

この地にあるこの世の国は、人の知恵と力により、治めようとするものであり、その全ては己の心から発するものを形とするもの、どれほど人が理想を求めても、そこに善は存在しません。
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。(エレミヤ17:9)」とある通り、人の心が偽りであるので、はなはだしく悪に染まった社会しか作り出すことができません。
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(箴言1:7)」「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。(箴言9:10)」からこそ、神を恐れないこの世は神の知恵がなく、愚かなことを繰り返すしかありません。
国を統治するのはその国の主権を持つ者ですが、最初に権力を持つニムロデの時代(創世記10:8-12)から、人は同じ構造を繰り返しています。
権力により支配をする構造。
それにより人は一つになろうとするため、自らの力と知恵で高い塔を作り、高みを望む者達が心一つにして、その支配の塔を作ろうとするのです。

【創世記11:3,4】
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

これこそがバベルの塔であり、このように人がひとつになって、神を離れ、自らの知恵と力により、神に逆らってこの地を治めようとする者達の集大成。
この高き塔こそ、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう(ルカ4:6,7)」というサタンの誘惑のささやきを聞く場所なのです。
主はこの人の力に「彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。(創世記11:6)」と語り、神ご自身が人に自らの似姿(創世記1:27)の内に与えた人の力を打ち砕くため、「彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」と心を一つにできなくし、力を分散させようとしました。
神に逆らって、自らの欲求の満足とそこに至る自己達成のために発揮する人の力は神が危惧するほどに、これほどに強いものなのです。
これがバビロンの起こりです。
そして、これがイスラエルを捕囚することとなる大帝国バビロンに繋がるものであり、やがて大淫婦と言われる「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母(黙示録17:5)」の姿、「大いなる都、不落の都、バビロン(黙示録18:10)」となるものなのです。
つまり人の世の歴史には、連綿とこの人の作り出した、人の知恵と力の支配の結晶であるバビロンが存在するのです。
そしてこのバビロンを神は忌み嫌われ、幾度もその歴史の中で打ち砕かれているのです。
さらに神は、その支配と権威の構造ごと、十字架により打ち砕き、全てを主イエスキリストの足の下に置かれました。

【エペソ】
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

【コロサイ】
2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

このように、人の世は支配と権力を奪い合い、こうしてこれまで多くの国々が歴史の中に生まれてきたのです。
神は初めから人の愚かさではなく、神ご自身の知恵によりこの地を治めることを望んでおられたのに。

【箴言8:5-17】
8:5 思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。
8:6 聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。
8:7 わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。
8:8 わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。
8:9 これはみな、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。
8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。
8:11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。
8:13 主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。
8:14 計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。
8:15 わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
8:16 わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

だから、今日の御言葉のごとく、罪の奴隷たる者が王となり、神の知恵を持たない愚かな者が自らの欲望を満足させるために生きる世を、神は耐えることができないと語り、地は震うと言うのです。

【箴言30:21-23】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。

そして、バビロンに属するもの大淫婦たるものが、「地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得(黙示録18:3)」て、「彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにし(黙示録18:7)」て、「心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言(黙示録18:7)」うことを忌み嫌うのです。

神はこのようなこの世の歴史に、明確な区切りをつけられることを語られました。
神の国がこの地の国々を打ち砕いて、全地を支配するという計画です。
それがダニエルが解き明かしたネブカデネザル王の夢の内容(ダニエル2:31-45)です。
歴史を動かす大きな中心的国家、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、そしてローマの影響を大きく残した現代。
その全ての国々の支配を超えて神の国は全地を統べ治め、やがてこれらの国々を打ち破って完全なる神の永遠の統治がこの地に到来することを預言したのがこの夢でした。

【ダニエル2:44】
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。

つまりこれこそが神の壮大な歴史における神の計画であり、私達はこの神の国に国籍を持ち、この地にこの計画を成就するために遣わされた者達なのです。
ですから、私達がこの地に染まり、この世の支配にひざをかがめ、大淫婦の仲間として、生きることはサタンに属し神の選びから自ら出て滅びに向かうことであり、愚かな生き方なのです。
私達はそのようなことをする必要は全くなく、救われた時から、キリストと共にこの地を統べ治める者として、始めからキリストの花嫁とされているのです。
大バビロンという都ではなく、私達こそ神の住まう神の国の永遠の都、新エルサレムなのです。
だからこそ、私達はそれにふさわしい賢い歩みをこの地上でもすべきなのです。
それが今日の御言葉の後半部分です。

【箴言30:24-28】
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

私達にこの地上では力はなくとも、神の国の到来を望んで今からそれに備え(25節)、決して揺るぐことのない信仰の岩(マタイ16:18)の上、御言葉の岩(ルカ6:48)の上、キリストの土台(1コリント3:11)の上に家を建てる(26節)。
王なるキリストはこの地上にはおられず天に居られるけれども、 私達はキリストの体、教会として一つとなってこの地上で生き、またこの世に出て行き(27節)、地には居るけれど、その霊において、常に王なるキリストの御前、天の御座のある王の宮殿に永遠に住まう。
そのような生き方を主は小さいけれども、非常に賢いものの生き方として語られているのです。

愛する兄弟姉妹。私達も世に惑わされてすでに得ている神の祝福を失うことなく、たゆむことなく、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めて(ピリピ3:13,14)」いこうではありませんか。

※今日の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記10:8-12】
10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。
10:10 彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。
10:11 彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、
10:12 およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。

【マタイ16:15-18】
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

【ルカ6:47,48】
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。

【1コリント3:11】
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。

【ダニエル】
2:31 王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。
2:32 その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、
2:33 すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。
2:34 あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
2:35 こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
2:36 これがその夢です。今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。
2:37 王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、
2:38 また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。
2:40 第四の国は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
2:41 あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。
2:42 その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。
2:45 一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。大いなる神がこの後に起るべきことを、王に知らされたのです。その夢はまことであって、この解き明かしは確かです」。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-03-19T14:37:34+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry49.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry49.html</link>
		
				
		<title>偶像にひざをかがめない</title>

		<description>【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏
してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

人の生来の性質は偶像を求めます。
まさしくこの偶像というものは非常にやっかいなもので、主がモーセに授けた十戒と言われる律法の中の一つが今日の御言葉になるのですが、この御言葉を与えられ、律法を守ることをイスラエルは誓ったすぐ後に、彼らは金の子牛という偶像を作り、神ならぬ神に祭壇を作り、供え物をささげ、崇めてしまうのです。
彼らはこの偶像に「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である(出エジプト32:4)」とさえ言っています。
しかし彼らは明確に「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです(出エジプト32:1)」と、天地万物を創造された、人の手によって造ることなど到底できようはずのない栄光の神を、自らのために造れと、ありえない冒涜を犯し、「 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたので(ローマ1:23)」す。
私達に造れる神に一体何の意味が有るのでしょうか。
「10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(1コリント10:19,20)」とあるように、自らの手で造った神という名のいかなる偶像も、それは何の意味もないものであり、それを崇めることは悪霊どもにひざをかがめ、悪霊の仲間となる、サタンを崇め、サタンと契約を結ぶ行為に他なりません。何と恐ろしいことでしょうか。
しかし、人はその結果がどれほど恐ろしいものであるのかを知らずに、この恐ろしい行為を当たり前に犯してしまうのです。
サタンの仲間となった者の行く末は、神に敵対する者であり、その結果は当然永遠の滅びなのです。それは神に選ばれた民であっても同様。
神ならぬ神に仕え、神に敵対する者となる以上、その定めから逃れうることはできません。

偶像が作り出されるのは、人間が自らの欲望をかなえる都合のいい神を造り上げようというところから発生するものであることが、このイスラエルの反逆からよくわかると思います。
ですから、いかなる人の貪欲も、「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」のです。
この世と言われる場所はこの貪欲が生み出す偶像礼拝に満ちた場所です。
それは神を退け、自らの欲望を満たすことを何の躊躇もすることなく、むしろ自分のために、自分の力で生きる者を賞賛さえされる場所であるからです。
この数限りない偶像に、世(サタン)は巧妙にクリスチャンのひざをかがめさせようとします。
それはサタンの甘い誘惑を伴うものですが、私達はここに明確な決別を宣言しなければなりません。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

主イエスがこの世に公に姿を現され宣教の働きを始められるとき、サタンはこのように主イエスを誘惑しましたが、私達も主イエスに遣わされている世というものに一歩でも足を踏み入れるのであれば、主イエスの答えられたサタンに対する宣言を常にその内側に携えていなければなりません。
でないなら、人は容易にその誘惑に惹かれ偶像の元に姦淫を行い、サタンとの契約を結び、二度と戻ることのない永遠の滅びに落とされてしまうからです。

【民数記25:1-3,9】
25:1 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
25:2 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。
　［中略］
25:9 しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。

このような世の戦いにどれほど多くの兄弟姉妹が飲み込まれ、本来与えられている命を失っていることでしょうか。
クリスチャン自らが自分の貪欲を制することができず、自ら作り出した偶像(自らの都合のいい恵みを与えてくれる都合のいい神やそこに導く数々の教え)に捕らえられる状況ですから、そこに聖別無くして、どうして世に立ち向かうことなどできるでしょうか。
しかし、時代は刻一刻と反キリストを迎える準備を整え、この反キリストにひざをかがめよと社会が要求するときが近づいているのです。
時代は信仰を失うか、信仰を守るため命をささげるかを問うほどに厳しさを増していく、それがこれから私達が向かおうとしている未来の姿です。
ですから、今ここに主にある信仰をしっかり持つ必要があるのです。

【ダニエル3:14-18】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

私達は今生きている社会においてでさえ、信仰に於いて妥協を要求されることがあるでしょう。
しかし、今社会常識という言葉や、生活のため、立場のためと、神に背く一抹の罪を責められる気持ちを持ちながらも理由をつけ、巧妙な言い訳を通して、信仰を譲る者は反キリストの登場を待たずして、日々サタンに近づき、かけがえのない永遠の命を明け渡し続ける者となるのです。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日あなたはどのような面持ちで社会(世)に出て行かれるでしょうか？
しかし、一歩そこを出るとき、あなたは神を選ぶか、自分を選ぶかという選択肢の中に足を踏み入れます。
そしてその選択はあなたを滅びに導く偶像の元に引き出すか、栄光の神の絶大なる祝福の元に導くかを明確に分ける選択肢です。

そのとき私達は、信頼する主に私達の全てをゆだねつつも、私達のいのちを主にささげて、世に、サタンに宣言する必要があります。
「3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:17,18)」 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-03-18T20:25:58+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>
	<item rdf:about="https://10win.web.wox.cc/blog/entry48.html">
		<link>https://10win.web.wox.cc/blog/entry48.html</link>
		
				
		<title>滅びに先立つ聖霊のささやき</title>

		<description>【使徒行伝7:28-43,51-53】
7:38 この人…</description>
		<content:encoded>
			<![CDATA[ 【使徒行伝7:28-43,51-53】
7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
7:39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、
7:40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。
7:41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。
7:42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
7:43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。
　［中略］
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

この神に逆らい金の子牛の偶像を作り、エジプト(世の型)に帰ろうとしたのは、神の選びの民とされたイスラエルでした。
それは神を知らない者達ではなかったのです。
さらに民に誤り導かれてその先頭に立ち、率先してこの偶像礼拝にイスラエルを導いたのは大祭司アロンでした。
信仰においては、モーセに次いで指導者中の指導者であるアロンがこれを行ったのです。
まさにこの時こそ、神がイスラエルの民を愛し、この律法に従えばあなたは神の宝の民となると言われる神の言葉を、モーセが神から授かっている真っ直中にいる時でした。この律法を元に、イスラエルは一つの民として、選民として歩みを始めるところだったのです。
しかし、この金の子牛を神とした時からイスラエルの民の神への背信が始まったわけです。つまり初めからイスラエルの民は神に逆らうところから歩みを始めてしまった。
だからこそ、「イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。(使徒行伝7:42,43)」と、預言をもって主から厳しい指摘を受けているのであり、その結果として「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」と警告されているのです。

そして、この同様の警告を今度はそのはるか後の時代、ステパノを通して、イスラエルの民に、神が語られた。
この言葉を聞いていたのは「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々など(使徒行伝6:9)であり、「その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。(使徒行伝6:12)」とあるように、イスラエルの中心的指導者がここにまた含まれていました。
この議会の席でステパノが聖霊によって語ったのが、今日語られている警告だったのです。

これは今の時代に全く関係のないことでしょうか？
使徒行伝の時代から大幅に時が過ぎた今のクリスチャンには全く語られていないことでしょうか？
いいえ、私達こそ、この内側に聖霊をいただいている者であり、聖霊の語りかけは常に私達に与えられているのであり、だからこそ、この言葉、使徒行伝7:51-53から目を背けてはならないのです。
そして、今の時代にもまた語られているのです。
あなたがたはまた聖霊に逆らい、主の思いを退け、自らの生活のみに心を使い、自らの満足のためにのみ神への信仰を語り、主の御言葉を無にしようというのかと。
もしも私達が主の御心を背けて、自らのことばかりに心奪われ、エジプトに帰ろうと心を使い、またエジプトに帰してくれる、自らの生活を満足させくれる金の子牛たる神を掲げて、聖霊の語りかけを退け、預言者の言葉を退け続けるのであれば、私達は再び預言者たるイエスを十字架に追いやるのであり、「6:4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能(ヘブル6:4-6)」となるのです。
そこに待つのは、「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」となることでしょう。

これは冗談や喩えで語られていることではありません。
この国の国民をやがて外国の民々が引いていく。日本の国がこの外国の民に占拠される日というのも、今の日本の抱えている問題の未来像の中に見え隠れしています。
どのような未来が待つのかは、歴史の全てを司られる神に選ばれた民であり、この地上においてこの神の祭司とされた私達クリスチャンがいかに神に向き合うのかに関わっているのです。
多くのクリスチャンは今日明日のことを考え、語り、今日と同じように未来がやってくるであろうと高を括って、自らの都合のよい計画を自らの満足のために立てます。それは教会や教団、クリスチャンの全体の集まりにおいてもこれまで延々と変わることはありませんでした。
だとするならば、クリスチャンはかつてパウロが嘆いたように、この国においては、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない(ピリピ2:21)」と主に嘆かれても仕方ないのです。
しかし、神が私達をこの地に置かれた目的は「1:5 わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(黙示録1:5,6)」とあり、「5:9 あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあるように、キリストと共に神の御心のままにこの地を統べ治めるためなのです。
そしてそのために、私達は救われ、天に国籍を持つ者(ピリピ3:20)でありながら、この地上に遣わされているのです。
なぜ主に選びの民として選ばれたのか、この本来の目的を私達が見失うのであれば、それはイスラエルが神の選民としての目的を失い、救い主イエスを自らの手で十字架にかけたのと同様に、私達も再び来られる主に逆らい、人の目にわかりやすく救世主に見える、私達の生活を満足させてくれる反キリストに従い、神の選びから自ら退けられた者になるということなのです。
これは恐ろしいことですが、現実にはすでに始まっていることなのです。
なぜなら、私達は変わらぬ信仰生活を送り、変わらぬ恵まれた日常を送るための言葉以外、つまりは私達が私達のためだけに生きることを語る言葉以外、受け入れることがすでにできなくなってきているからです。
それはすでに聖書に預言されていることに他なりません。

【2テモテ3:1-5,4:3-4】
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
　［中略］
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

【1コリント10:5-12】
10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
10:7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

【ユダ1:16-19】
1:16 彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。
1:17 愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
1:18 彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。
1:19 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

もしも今の時代にあなたの思うままに生きさせてくれるあなたのための神が出てきたら、あなたはそれに従うでしょうか？
そのように目に見えてあなたに都合良く恵まれる神に導く指導者を、あなたは容易に神から来た者として受け入れ、従って行きはしないでしょうか？
それがかつての金の子牛であり、終わりの日の反キリストなのです。
誰が神のためにのみ生きることを願い、神の御心に真剣に耳を傾けるでしょうか？
この国が、イスラエルが崩壊した時と同様に、滅びの警告を受け、まさにその現実が目に見える形で刻一刻と目の前に迫っているのに、どうしてこの滅びからこの国を救い出そうとする神の御心のために生きることを放棄していられるでしょうか？
ここに必要なのはこの国の破れ口に立つとりなしの祈りであり、語られるべき福音なのです。
神の知恵が無き者がどうして、この国を滅びから救い出すように導くことができるでしょうか。
祈り無くして、どうして誤り続ける人に、神のあわれみ深き全能の知恵が授けられるでしょうか。
福音が語り出されること無くして、どうして日常的にソドムとゴモラのような罪の中に生きるこの国にあって、ツロとシドンのような道を歩み続けるこの国にあって、滅びから一人でも救い出されることがありましょうか。
あなたの人生は今この時神に従うこと無くして、どうしてこの国の滅びから自分一人免れることができるでしょうか。

【エステル4:13,14】
4:13 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

だから、愛する兄弟姉妹。共に祈りましょう。あなたが神の御心を受け取り、この国の滅びをとどめる一人となるために。 ]]>
		</content:encoded>
		<dc:subject>今日の聖書</dc:subject>
		
		<dc:date>2015-03-13T12:51:33+09:00</dc:date>
		<dc:creator>10win</dc:creator>
		<dc:publisher>WOX</dc:publisher>
	</item>

</rdf:RDF>