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あなたへの良き知らせ
【2列王記25:27-30】
25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。
私達が救われクリスチャンになったということは本当はすごいことです。
しかし、時々私達はそのことを忘れさせられいつの間にか意気消沈させられ、希望もなく、未来も見えず、あるいは今日と変わらない明日を求めるだけで、やっとのような信仰生活を歩む日もあるでしょう。
でも、騙されてはいけません。それはあなたが主から与えられた救いの絶大な意味を見えないようにされ、その喜びを奪おうとされているだけです。
だから、もう一度そこに立ち返って、主の驚くべき御業がいかに恵みに富んだものなのかを見つめ返したいと思うのです。
もしも、救いにより私達が与えられた立場が本当にわかったら、あなたはその中に主にある永遠の深い安らぎ、平安を得ることでしょう。
今日のこの箇所には救われたということがどのようなことを意味するのか、その型となることが語られています。
【ルカ4:17-21】
すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
主イエスご自身がイザヤの預言からこのように語られたように、これが人々に与えられている良い知らせ、福音の本質であり、主が来られた時からあなたの中に成就するもの、主を受け入れ救われた時からあなたはその恵みの中に入れたのです。
「囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(18節)」とあるように私達はそれまで罪捕らえられ、永遠の滅びと受けるべき、死刑囚でした。
その罪の暗闇に神を見ることもゆるされず光はなく、罪の奴隷として売り渡されたもの、この罪の前に成す術のない自由のないものでした。
それは、エホヤキンに現された姿も同様です。
しかし、主はそこから私達を解放しました。ご自身の命を十字架に差し出し、この死刑囚という立場から私達を贖い出して、その「獄屋から出して(27節)」くださったのです。
そして罪に打ちひしがれ傷ついた私達を、主ご自身がいやし、慰め(28節)てくださいました。
私達は「獄屋(囚人)の服を脱ぎ(29節)」、キリストを着て(ガラテヤ3:27)、さらに驚くべきことに、この地上のどの王よりも高い神の王国の王族としての地位を与えられたのです(28節)。
私達は、一生の間、常に王なるキリストの前で、やがて朽ちるような食物でなく永遠のいのちを与える「神の口から出る一つ一つの言で生きるもの(マタイ4:4)」として食事し(29節)、主との深い交わりを与えられています。
もう私達は何を食べようか何を着ようかと思い悩む必要はありません(マタイ6:31,32)。主ご自身がその全ての必要をご存じで、たまにではなく、また一時的、あるいは気まぐれでもなく、「一生の間、たえず日々の分を王(なるキリスト)から賜わって、(30節)」生きる者とされたのです。
私達に与えられていないものは何一つありません。
エデンの園で神との間に与えられていたもの、その全てが神との和解により主との愛と永遠におけるいのちの交わりのうちに、回復した。
それが救われた私達の本来の姿です。これが私達の希望です。
そしてこの恵みは主との間に永遠に与えられているものなのです。もうここから私達を引き離すものなど存在していないのです(ローマ8:35-39)。
さあ、元気を出してください。
いつまでも偽りに捕らわれずに、本来のあなたの姿を見つめてください。
そしてあなたの主に与えられている今日を喜び、主をほめたたえつつ、一日を過ごしてまいりましょう。
今日もあなたの上に、主の恵みと愛と交わりがとこしえにとどまりますように。
2014/12/03(水)
13:01
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主を喜ばせる行い
【2サムエル2:4-7】
時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。人々がダビデに告げて、「サウルを葬ったのはヤベシ・ギレアデの人々である」と言ったので、
ダビデは使者をヤベシ・ギレアデの人々につかわして彼らに言った、「あなたがたは、主君サウルにこの忠誠をあらわして彼を葬った。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。
どうぞ主がいまあなたがたに、いつくしみと真実を示されるように。あなたがたが、この事をしたので、わたしもまたあなたがたに好意を示すであろう。
今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。あなたがたの主君サウルは死に、ユダの家がわたしに油を注いで、彼らの王としたからである」。
人に対する態度は、自分の神に対する態度に通じるところがあります。
神を愛し、神に仕え、神のために生きると口で言うことはとても簡単です。
しかし日々の生活の中で、そのことを思い、いついかなるときも全ての行動の基盤をそこに置いているのであれば、それは自然に日々の行動に現れます。
【エペソ6:6-8】
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
そして、全ての行動の根底に何があるのか、人にはわからなくても、神はその心の奥底をご存じです。
やがて主イエスが再びこの地に来られ、このダビデ(王である主イエスキリストの型としてここでも見ることができます)のように、全地の王としてこの地を治める時には、主はこれまでの私達の心からの行いをもって、私達に報いてくださるでしょう。
【2コリント5:9,10】
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
なぜなら、主ご自身のために私達がしてきたことを、主が喜ばないはずがないからです。
そして、その喜びは今私達がどのように行動すべきかを決め、行う段階から私達は味わうことができるのです。
なぜなら、主を愛し、主を思い、主のために主の御心を行なおうと行動を選択する段階から、私達は聖霊を通じて、私達の心の中に主の喜びが満ち溢れ始め、いかなることにも心揺れることのない平安で心が満たされるからです。
逆に言うならば、この平安と喜びによって、私達は今何をすべきか、何が神を喜ばせることなのかをはかり知ることができるのです。
今日あなたの一日はどのような一日でしょうか。
主に喜ばれる日々が重ねられますよう心からお祈り申し上げます。
2014/11/28(金)
10:08
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主にある不動の歩み
【1ペテロ5:8-11】
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。
クリスチャンとなった者、主に救われた者は決して苦しみに会わないのではありません。むしろ、世から移されて神の者とされ、暗闇とサタンの支配からイエスキリストの支配の中に入れられたからこそ、世は私達を憎みます。私達は世のものではないからです。
この世の支配者であるサタンは主から格別の恵みに預かる、祝福された主に選ばれた民、クリスチャンを、大きな妬みをもって戦いに巻き込んできます。
つまり、私達が救われ新しく生まれたその日から、信仰の戦いは始まるのです。
しかし、主はこの戦いはすでに結果が出ているものであり、主を信じたその時から、私達は永遠の十字架の勝利にあって主に勝ち取られたものであり、常に、いついかなる時も、私達は全てのものに勝利している者であると語っているのです。
この最初から、何ものにも揺るがされることのない勝利の中にいるからこそ、むしろ神はこの地を勝ち取る者として、私達をこの地上に遣わされました。
それが私達の本来の姿です。
【1ヨハネ5:4,5】
なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
このことを私達クリスチャンはもっと知る必要があります。
この世の何ものにも揺るがされることのない、不動のものとされるために、私達はこの事実を知るために、戦い、苦しみに会うときもあるかも知れません。
しかし、そこにいつも十字架にあって、主は私達をいやし、絶大なるそのよみがえりの力により強められ、力づけられ、永遠に変わることのない完成した十字架の御業を、我が内に不動のものとして知るのです。
まさしく私達が勝利者として、十字架に一つのものとされ、不動のものとなる。私達自身が揺るがされることのなく、むしろ世を揺るがす者となるのです。
パウロを「この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、(使徒24:5)」と言わしめた主の絶大なる神の力はあなたにも働いて、世から多くの命を神の国へと、そして永遠の命へと勝ち取る者となり、あなたも世を揺るがす者となることでしょう。
神はあなたを永遠に勝利者として、勝利の道を歩むように招き、また導きます。
神の全能の力に全てをゆだねて。主の圧倒的な勝利が、あなたの人生を覆い尽くしていることを、あなたが知るに至り、その勝利を目の当たりにする全ての人々によって、神の御名が高らかにほめたたえられますように。
2014/11/27(木)
14:21
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主と永遠に共に歩む
【マタイ4:18-20】
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
人生を変える出会いがあります。それは主イエスとの出会いです。
人生を変えるべき一言があります。それは主イエスから召されたときです。
主に出会った者は人生が変わります。
新しい命を与えられ、新しい人生を歩むからであり、それは私達が本来どのような目的で主により造られたのか、その本来の目的に沿った人生を歩むからです。
そこには、こんなはずではなかったと言う、人生を掛け違えるようなことはなく、主に従って行くならば、後悔の必要は決してありません。
そして、主の召しに躊躇する必要もありません。
主は私達の人生の全てを見ておられ、私達のこれまでの歩みを何一つ無駄にすることなく、最善の道のりを備えてくださるからです。
確かに主と共に歩むためには、これまでから全く新しい歩みであるため、すべてを捨てて従って行かなければならないでしょう。
しかし、その歩みは全てに勝る価値のある歩みとなります。
【マタイ19:27-29】
そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
主に従って行くかどうかを決めることは一瞬かも知れません。しかし、そのことはあなた自身の永遠の歩みの価値を大きく決定することになるでしょう。
それはこの地上において、たとえイエスと同じ道を歩むことになったとしても、命よりもはるかに価値のある、神の喜びを一身に受ける恵まれた人生を歩むこととなります。
なぜなら、主に従い歩む道はいずれにしても、主の御足の跡をたどるという、唯一父なる神を満足させる道のりを、主と共に歩むからです。
そして主からの召しを大切に担って歩む歩みは、やがて主の秘めたる胸のうちをうかがい、その御思いを共有しながら歩むという、主と最も親しい交わりを持つ歩みとなるでしょう。
やがて天において主と顔と顔とを合わせてお会いするとき、その主との親しい交わりは何も変わることなく、いや驚くほどの親しさをもって、この地上での主との共なる歩みを、主と語り合えることでしょう。
それはどれほどの喜びであり、どれほど価値のあることでしょうか。
そうです。私達の人生は主にどれほど満足していただけるかであり、その喜びを主と共にどれほど共有できるかであり、そのことにより、主の栄光が私の人生にどれほどに輝きあらわれいでるかであるのです。私達の人生そのものは主への最上のささげものであり、主を喜ばせる最上の麗しい香りを放つものとなることができるのです。
主に従い歩む道のりは、どこまでも深く、底知れない価値を見いだせる道のりなのです。
それは主と出会った瞬間から始まる、主に従い行くかどうかという選択。あなたが主に向かい、まず一歩を踏み出すかどうかから始まるのです。
さあ、恐れずに、共に主に従ってまいりましょう。
2014/11/26(水)
14:05
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主の訪れに気づく
【ルカ4:16-21】
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
主イエスが語られたこの御言葉は【イザヤ61:1,2】の預言です。
それはイエスがこの地上に誕生されるはるか昔に預言者イザヤによって語られた預言。
そして、その預言が「この日に成就した(21節)」と、大いなる希望をもって主が自らの唇で語られています。
はるか未来の預言と思われていたもの、それがこの日成就したと語られたのです。
今、この言葉は同様に私達にとってははるか昔に語られた言葉に思われるかも知れませんが、今の私達に語られています。
主が今生きておられる。私達のうちに。
この事実はこの御言葉が、今のあなた自身に、そして今向き合っているあなたの現状に、明らかに光を差し入れる希望の言葉であり、これはただの慰め、ただの気休めの言葉ではないのです。
この時代、主イエスに出会った多くの人達がいました。しかし、この時まで多くの預言者を通して語られた、救い主に関する預言(メシア預言)の言葉の一つ一つが、自分に何ら関係のない、ただの気休めの言葉として、あるいは自分から遠い場所で起こるおとぎ話のように捉えていたのであれば、どれほど近くでイエスに出会えたとしても、この方が自分の救い主であることに気づくことはありませんでした。
そのように多くのイスラエルの民はイエスにつまづきました。目の前に居る救い主に気づかず、やがてはその救い主自身を自分たちの手で十字架につけてしまったのです。
そのことは今の私達にも同じことが言えます。
今あなたに語られているこの御言葉があなた自身にあまり関係のないことのように、日常の生活に追われるままに日々を過ごしているのであれば、あなたのうちに居られる方がどれほど絶大な方で、あなたの人生を全く変えるほどの神の大いなる御手があなたに伸べられていたとしても、あなたはそれらには全く関係なく、つまり救い主はあなたの人生に直接的には何も関わることなく、あなたは人生の大切な時間の大半を過ごしてしまうでしょう。
でも、この方は今生きてあなたを救う救い主なのです。
あなたを罪に捕らえられた生活から解放し、だからこそあなたを囚人のように捕らえる全てのものから解放すると、今主は言われます。
そして、問題だらけ、悩みだらけ、苦しみだらけ、悲しみだらけ、死とのろいの満ちる地上で、希望の光を、いずこともなく盲人のように探し求める、あなたの目に光を与え、その目を開かせて真の希望が如何に絶大なものなのかを知る者としてくださると主は今語られているのです。
そして現実に打ちひしがれているあなたに主イエスにある真の自由を得させ、救い主のめぐみの年が今来ていることあなたに告げ知らせていると言っているのです。
なぜ、なおあなたは、何も与えられていない者のように、他の何かに希望を求めたり、自らの小さな小さな手でわずかな希望を握りしめるように、小さく背を丸めて、目の前にあるものだけを見ながら、ため息とあきらめだらけの人生を歩む必要があるでしょうか。
あなたの信仰の目を開くなら、そこにあなたの救い主は生きて居られるのです。
どうか、今生きてあなたに働く主の大いなる愛に、あなたが気づきますように。主の知恵と啓示の霊をもって、あなたの目が今開かれますように。
2014/11/22(土)
08:06
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ただ主のみを恐れよ
【詩篇103:13-19】
父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。
人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。
風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
心弱まるとき、自らには何もなく、力も、良い知恵も、頼れる人も、頼れる物も一切なく。ただ心許なく、神様すら遠くに思え、どうしたらよいのか途方に暮れるとき。
まさしく、聖書にある通り、私は何者でもなく、塵(ちり)に過ぎない者。それ以上でもそれ以下でもない。
そう感じるときが誰にでもあるでしょう。
しかしここで、主は私達が塵に過ぎないことを知っていると言われています。
主を我が主とし、神を我が神とし、王なる方を王とする者、主を恐れる者に、主は「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(黙示録21:7)」と語られます。
それが神に造られた者、そして主イエスの贖いにより神との和解を受け、神との本来の関係に戻された者のあるべき姿です。私達はここに平安を得ます。
この王なる神がご自身の玉座に着かれるなら、神が全てを統べ治め、とこしえに変わらない主の公義といつくしみが溢れ、万物は主の御言葉に従って行くのです。
現実が如何なる状況に見えたとしても、この現実が御言葉に従っていくのです。
【ヘブル11:3】
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
この御言葉こそ、神の子とされた者には愛そのもの。そして命そのもの。主イエスそのもの。
神の子はこの御言葉の中に留まり生きるのです。
そうです。神はあなたの父のように、あなたを愛し、あなたに何もないことを十分に知っていると語りかけられ、だから主により頼み、主に従い、主を愛し、主を恐れ生きる者のために、主は万物を動かしてあわれむと言われるのです。
このとき、私達に何もないということは何の意味もなくなります。なぜなら、天地万物全てを統べ治める方が、あなたの全てとなるというのです。あなたには全てのものが主にあって与えられているというのです。
これがどれほど凄いことかわかるでしょうか。
あなたには何もなくとも、全てが満ち溢れ、問題は何一つ問題ではなくなり、全てが主の栄光となっているのです。
鍵はあなたが神を恐れ、あなたの王として玉座に迎え、主の御言葉のうちに留まることです。全てはあなたの何ものにもよらないのです。
全ての恐れを捨て、神を恐れましょう。
2014/11/21(金)
12:32
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