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【1コリント15:55-57】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

主イエスキリストが与えてくださる勝利は私達が自分の手で勝ち取る勝利とは全く別次元のものです。
多くの人々にとっての勝利とは、自らの知恵や力を用いて、あるいは協力するなどして、結果として敗れる可能性のある戦いを戦って得るものです。
人の力には圧倒的な差というのはなかなか発生するものではありません。もちろんときにはそうしたことを味わうこともあるかも知れませんが、常にそのような勝利をするというものではありません。
ですから、敗れる可能性に恐れながらも、勝利のために自らを奮い起こし、あるいは全身全霊をもって、この戦いに望みます。
精神的にも勝利に集中し続け、あるいは何度も勝利をイメージし、心にそれを集中して刻みつけるようにしながら、毎日をそのために過ごしていく。
だからこそ自分に負けないという言葉のもと、自らを鼓舞して戦いに向かっていくしかない。
そこまでの努力や、積み重ねた日々重みが、勝利を得たとき、自らの達成感と共に、自らの栄光として帰ってくる。
これが世にあるところの勝利者でしょう。
この世においては、このように自らを注いで、あらゆる面において勝利を得ていく者を、人生の勝利者と呼び、賞賛の対象とし、理想として崇め、自らがそのようになりたいと思いながらも、現実は勝利でき切れない生活の中に生きていると考えている方も多くあるのではないでしょうか。
これが理想と現実のように。

【詩篇39:4-7】
39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。[セラ
39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

しかし、それらは人が力を失えば、また何か一つの歯車が狂ってしまえば失ってしまう勝利。
すぐにそれは幻と消え、過去の栄光と言う名の下に、移ろいゆく影のようにやがて全てが消え去って、その栄光があったことすら人々が覚えていることはありません。
何と儚い勝利を人は、追い求め、賞賛していることでしょうか。
ですから、主イエスキリストはこのようなことを決して勝利とは呼んでいません。
また、主は私達にそれを要求されているわけでもないし、そのような生き方を勝利者の生き方と呼ぶこともありません。
主イエスが与えてくださる勝利は、すでに完成された勝利です。
そしてこの世に対する完全な勝利であり、またこの戦いは私達の何かに任せられているのではなく、主イエスが勝ち取られたただ一度の完全なる勝利によって、全てが勝利の内に飲み込まれ、完成したという勝利です。

【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

【1ヨハネ5:4,5】
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

つまり、主イエスキリストはただ一度十字架にかかられ、このことにより、主は世に勝ち(ヨハネ16:33、1ヨハネ5:4,5)、サタンに勝ち(ヘブル2:14,15)、肉に勝ち(ガラテヤ5:24)、罪に勝ち(1コリント15:55)、死に勝たれた(1コリント15:55)のです。
そう、私達の生きる全てを脅かしてきた死にすら完全に打ち勝たれた。
ですから、この世にある、あらゆるものも、私達を恐れさせることはできません。
主イエスキリストは十字架によって、私達を取り巻くありとあらゆる事に勝利をおさめられた(ローマ8:35-39)のです。
これにより、この十字架の下に来る者(私達)に、この圧倒的な勝利を与え、さらにはこの勝利によって、何を勝ち得られ、何を完成されたのかを見せてくださるのです。

【黙示録】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

主イエスは今、私達を主ご自身の幕屋として、その内に住まわれ、永遠に離れることなく私達と共にいてくださるのです。
もはや涙を流す必要はありません。
死も、悲しみも、嘆きも、痛みも、主が私達の死に打ち勝たれ、全てに打ち勝たれ、よみがえられたのです。
そして、私達をこの地にいながらも、主が私達に与えてくださった新しい命、神の国をつぐことの証印としての聖霊(エペソ1:13,14)によって、この天の御国、完成された新エルサレム、永遠の都に、入らせてくださるのです。
これは絵空事でも幻でもありません。
この事実があなたが救われた時に与えられた絶対的な平安であり、あなたはそのときから、この永遠の都に住まう素晴らしさを霊の内に知り、喜んでいたのです。
さらには、主がおられるのであれば何があろうとも平気である感じられたあの平安は、全てに勝利を、あなた自身がすでに得ていた確証であったのです。
すでに勝負は済んでしまっていたのです。
あなたの戦いは主がすでに戦い、勝利を完成していてくださっていたのです。
あなたはこの勝利に基づき、十字架の下に、このキリストの流された血の契約により、全ての面、全ての事において、勝利を受け取る歩みを進めればよいだけなのです。
なぜ、敗れたかのように悩んでいるのでしょう。
なぜ、失ったかのように悲しんでいるのでしょう。
なぜ、世にあるものに怯えて、恐れの内に閉じこもっているの必要があるのでしょう。
なぜ、人生に絶望することがありますか。
勝利を味わう人生は、すでにあなたの内に来ているのです。
この十字架にある勝利の確信は初めから私達に与えられており、この確信において、全てのものを受け取ればいいのです。
天に於いて完成したものは、必ず地に於いてその完成は現れます。
あなたのすでに天に於いて受け取ったものは、地に於いて必ず現れるでしょう。
恐れる必要はないのです。

さあ、主イエスキリストにあって、勝利者としての歩みを始めましょう。

※メッセージで引用した聖書箇所です。ご参照ください。

【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。

【ガラテヤ5:24】
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

【ローマ8:35-39】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(新改訳では「圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。)
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
2017/04/27(木) 19:41 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
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