【ルカ2:6,7】
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
救い主の存在は人を必ず二つに分けてしまいます。
彼を受け入れる者と、彼を拒絶する者。
彼の存在はその生まれたときから、このことをはっきりとさせていました。
人は彼が生まれてくるのを拒絶したのです。
拒絶された救い主それがイエスキリストです。
【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
私達が私達自身の力で、光を持つのであれば、彼の存在は迷惑なものとなるでしょう。
彼自身がまことの光であり、私達が輝く、あるいは作り出す光は、この光の前では何の意味もないもの。まことの光の圧倒的な輝きの前では、私達の光は闇に等しく、そこに命はありません。
【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
命の光はそれを受け入れた者には命になるけれど、自らの光を保ちたい者には、まことの光は、自らの光がやみと変わりないことを現してしまう。
だから、自らに光を見出そうとする者は、まことの光を拒絶するしかできないのです。
【ヨハネ1:5】
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
「輝く自分になる」「光ある未来へ」そんなキャッチコピーが町には溢れ、クリスマスの街角はもう12月の始めから輝きっぱなしですが、この命のない偽りの光こそまことの光を拒絶するものです。それは私達でさえも。
自らの力で作り出した希望。毎日の生活を安定して与える豊かさ。それを支える金銀の輝き。光でつながる情報化社会に知識は溢れ、まるで一人一人が賢者のよう。
この豊かで平和に見える光溢れる生活を乱されたくない、神でさえも。
人の心は光ではなく闇を好んでいるに過ぎません。
【マタイ2:1-3,16】
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
[中略]
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
【ヨハネ】
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
しかし、暗き地を歩む者、神にしか頼るものがない者には、光が照ったのです。
それはまことの光を拒絶せず、いや拒絶しえない者だからこそ、その光を受け入れ、命を受けたのです。
【マタイ4:16】
4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
さて、今あなたはどうでしょうか?
これはかつて神を知る民イスラエルに救い主が与えられたのと同様に今クリスチャンである私達に問われています。
救い主イエスキリストを拒絶しないなら幸いです。
この方にのみ希望を持ち、この方にのみ寄りすがり、この方のみを光とし、この方のみを必要としこの方を求める者、この方を受け入れる者は幸いです。
命の光を得るでしょう。
そして、そのような者はいつでも飼い葉桶に眠る救い主に出会えることでしょう。人が拒絶し出会えなかった、羊飼いや博士達のように小さな寄る辺ない者にのみ出会うことのゆるされた小さな救い主に。
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