【申命記11:10-16】
11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
11:13 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、
11:14 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、
11:15 また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
11:16 あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。
エジプトは一年を通して雨があまり降らない土地であり、年に周期的に起きるナイル川の洪水を利用し灌漑することによって、初めて農業を行なえる土地でした。
洪水時に貯水し、洪水が引くと排水して耕地とし、作物を植えるのです。
定期的に貯水と排水を繰り返すことによって土壌の塩分が除かれ、周期的に肥沃な土が堆積されるという意味では豊かな土地ではありましたが、灌漑を人の手でしなければならない、「あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。(申命記11:10)」とあるように、非常に労力のかかる土地でした。
つまり、世を現すエジプトの生活は常に人の力によって生きなければならない、非常に苦労の多い、あるいは人が自分の力で生きることを止めてしまえば、生きることのできない過酷な生き方です。
しかし、主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、彼らに与えた約束の地はそうではありません。
「しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。(申命記11:11)」とあるように、山があるからそこに雲がぶつかりその下に雨が降り、谷があるからそこに川が流れる。天然の地形に恵まれるから、ちゃんと必要なときに雨が降る、人の力によらずに潤った土地、「乳と蜜の流れる国(申命記11:9)」だったのです。
主に救われた私達の生き方は本来このようなものです。
私達の努力には一切よらず、主の与えたもう主の豊かさだけで、全ては満たされ潤う生活。
世から出て、主の御手の内に生きる生活とはそのような約束の伴う土地なのです。
しかし同時にそれは、「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、(申命記11:13)」とあるように、主の御心(「わたしの命令」=御言葉)に従い生きて、主を全身全霊を以て愛することによってもたらされる、主の祝福であるのです。
それは言い換えるのであれば、肉に歩まず御霊に導かれて歩む(ローマ8:11-17)、信仰による生活。
しかし、一度自分の力による生活、つまり肉の欲を満たす肉による生活(ガラテヤ5:16,17)を送ろうとするのであれば、それは世を愛する(1ヨハネ2:15-17)生き方であり、エジプトに逆戻りし、エジプトの奴隷生活つまり世の奴隷、罪の奴隷として生き続ける生活が待っているのです。
それは神から心離れ、欲を満たす代わりに祝福を奪い取りのろいと変える神々に仕え、拝む生活(申命記11:16)となる。
何と恐ろしいことでしょうか。
自分のために生きることと、主のために生きること。
自分の欲を満たすために生きる生活と、神を愛し神の御心に従う生活。
この境目は紙一重ですが、その結果はエジプトの生活と約束の地の生活以上の大きな差、祝福とのろい、命と死という大きな結果の違いとなって現れるのです。
あなたは今年、年の始めから年の終りまで、どのように過ごすことを望まれるでしょうか。
私はあなたに、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。(申命記11:12)」
という信仰の地に生きられることを望んでいます。
どうかこの年も主の祝福があなたの上に豊かにありますように。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ローマ8:11-17】
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
【ガラテヤ5:16,17】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
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