【創世記18:17-33】
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。
主を知らない民が、知らないがゆえに、いや知らないと言えども主を退け主の思いに逆らい、罪を重ね続け、その重なる罪のあまりの大きさ(酷さ)のため、滅びに至ろうとしているのを見た時、私達は何をすべきでしょうか。
そこに自らの家族が居るとするならば、どうでしょうか。
これがアブラハムがこの時置かれていた状況です。
そして今私達の置かれている状況はどうなのでしょうか。
【ユダ7節】
1:7ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
この国の罪深き状況はすでにソドムとゴモラと同様であり、さらにそれ以上の罪を重ねようとさえしている姿を見て、神はこの国をこのままで放置されることはないでしょう。
刻一刻と自らの選択で滅びに向かう国に、私達も住まいまた家族や大切な人々がそこに生きている。
【マタイ】
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
だからこそ、主はこの国の滅びの日が遠くないことをあなたに教えられていないでしょうか?
アブラハムは祝福を受ける者として、また主の正義と公道が彼を通して現されるために、主に立てられた者であり(創世記18:17-19)、私達も救われてアブラハムの祝福にあずかる者となった以上、同様に主の正義と公道が私達を通して現されることを主は願っているでしょう。
つまり、アブラハムと同様に私達はこの国を主から与えられており、この国を主の正義と公道によって治める者としての責任を負っているのです。
だからこそ、主はご自身の計画を私達に隠されることはない。
【アモス3:7,8】
3:7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。
だから、今なおさら主の前に、この国の滅びのために、私達はこのアブラハムのようにとりなす必要があるのです。
この国が神に立ち返るように。
アブラハムは何度も何度も主に食い下がり、とりなしを止めることなく、五十人の正しい人から始まり、たった十人の義人さえ居れば、主の裁きがとどめられるようにまで、引き下がることなく、あきらめることなく、とりなしました。
それは主の前に、なりふり構わない必死のとりなしであったと言えるでしょう。
おそらくは、ロトの家族だけで六人はいたのですから、ただあと四人の義人が居れば、ソドムとゴモラの土地は滅ぼされないで済むと、アブラハムはそこまでとりなした。
しかし、結果はその十人にさえ到底至らず、この裁きを免れ生き残ることができたのはロトとその二人の娘のたった三人でした。
ですから、主にとりなしを祈る時、自らのことのように主にとりなし、最後の一歩に至るまで予断をゆるさず、自らの命さえ投げ出して、とりなす必要があるのです。
【出エジプト】
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば--。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
いや、このとりなしはそもそもは神ご自身の心なのです。だから主イエスご自身が命を十字架にささげ、究極のとりなしをなされた。
神は私達が滅びることを願ってなどいないのです。
むしろ罪から立ち返り、救われることを切望しておられるのです。
【エゼキエル】
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。
主はこの滅びへの破れ口に立ちとりなす者を待っておられるのです。
そうです。主はご自身と心一つにして、自らのことをかえりみず、その命をささげとりなしの祈りを祈るのを。あなたの祈りを待っているのです。
【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
あなたとあなたの大切な人々の住むこの国が、神の前に立ち返り滅びを免れるように共に祈ってまいりましょう。
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