【マタイ25:40】
25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
私達の神に対する態度は、人に対する態度に現れるときがよくあります。
神に対して侮る態度をとる者は、人に対しても侮り、神に対して高慢な者は、人に対しても高慢であったりします。
それが一つの基準となり、自分が神に対してどのような者であるかを推し量ることもできるのです。
今日の御言葉は、まさしく私達の人に対する態度を、主が見ておられるのだということがはっきりとわかる箇所です。
それも最も小さな者達に対する態度を主が見ておられるのだとすれば、私達は神に対してどのような者としてその目に映るでしょうか。
人は見た目に惑わされ、重要視されているような、地位や名誉を持つ人や、才能や賜物、あるいは豊かさなど、目に見える何かを持っている人に、また身分の高い人、偉い人には丁寧であったり親切であったりするでしょう。
たとえば偉い先生や、全国的に活躍している奉仕者、歌手や、メッセンジャー、メディアにたびたび登場するような有名人、海外で有名な大きな教会の牧師やリバイバルの器と言われる先生方、そんな人達には黙っていても、人は集まり、また歓迎し親切にするでしょう。
しかし、身なりが貧しかったり、何も目を惹くものを持っていなかったり、卑しく見える人には、以外と適当な態度で接してしまう。
しかし、主イエスご自身貧しい大工のせがれとして生まれました。
ですから、彼を昔から知っていて、彼の人間としての姿しか目に入らなかった者達は、彼を軽んじ、彼こそが長い間イスラエルが待ち望んでいた救い主であることに気づきませんでした。
【マタイ13:54-58】
13:54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
13:55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
13:57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
果たして今の時代に主イエスが同様に現れたら、私達には主ご自身のことがわかるのでしょうか。
いや、主は「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイ25:40)」とはっきり言われています。
主の基準はさらに明確で、私達の前に遣わされた小さい者達の内に主はご自身を投影されているのであり、まさしくその小さい者達の中に、卑しく小さい者とされこの地に来られた主イエスの姿を見出し、あるいは主イエスがこの目の前の小さな者をどれほどに愛しているかということを見ることができなければ、私達は主の御心を見出すことのできなかった高慢な者であったということが現わされてしまうのです。
【マタイ18:1-5】
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
18:5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
【マタイ23:11,12】
23:11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
23:12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
目に見えるものによらない、目に見えない、「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る(1サムエル16:7)」と言われる神の国の基準。神の眼差しは低い者、小さい者に注がれています。
主はそのような者をこそ哀れまれる。
なぜならそれは、彼らこそ、神の恵みを心から喜べる者であり、また神の栄光を現すにふさわしい人々であるからなのです。
【ルカ14:11-14】
14:11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
14:13 むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。
14:14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
私達自身が低い者、小さい者であるのかどうかは、私達がどのような眼差しでまた心で、人(小さい、低い者達)に向き合っているのかで推し量ることができます。
多くの人々は自らが偉い者になろうと考えます。
それは弟子達が最後の晩餐の席でまで、論議し合っていたのと同じように、クリスチャンの私達の集まりの中でも、世と同じ基準において誰が偉いのかと心の中で人を見てしまっているということなのです。
【ルカ22:24-30】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。
しかし、主はそれとは別の神の国の基準で私達がこの地を治める者となるよう、私達に語られています。
それは自らを低くし、兄弟姉妹にそして神に仕えることにより、治める者となる。つまり「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則に基づいて、この地を治めることを、主は私達に求めておられるのです。
【ピリピ2:5-9】
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
いや、そのような神の思いを持って、地にまで下り、卑しめられ、自らの全てを無にしてまで、低きところに下られた主イエスと共に生涯を歩む者に、そのようにこの十字架に続く御足の跡を、命をささげてたどる者に、主は天においては高き座を与え、治める者としようと語られているのです。
この主イエスの思いをもって、この地を歩む者には、今にも消え入りそうなほど弱い者、小さい者、傷ついた者、貧しい者たちの姿が目に映り、そこに主に仕えるように仕え、主を愛するように愛する思いが芽生え溢れてくるでしょう。
どうか主が、私達を主イエスの思いにかなう低き小さな者としてくださいますように。
【マタイ12:18-21】
12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
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