【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏
してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
人の生来の性質は偶像を求めます。
まさしくこの偶像というものは非常にやっかいなもので、主がモーセに授けた十戒と言われる律法の中の一つが今日の御言葉になるのですが、この御言葉を与えられ、律法を守ることをイスラエルは誓ったすぐ後に、彼らは金の子牛という偶像を作り、神ならぬ神に祭壇を作り、供え物をささげ、崇めてしまうのです。
彼らはこの偶像に「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である(出エジプト32:4)」とさえ言っています。
しかし彼らは明確に「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです(出エジプト32:1)」と、天地万物を創造された、人の手によって造ることなど到底できようはずのない栄光の神を、自らのために造れと、ありえない冒涜を犯し、「 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたので(ローマ1:23)」す。
私達に造れる神に一体何の意味が有るのでしょうか。
「10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(1コリント10:19,20)」とあるように、自らの手で造った神という名のいかなる偶像も、それは何の意味もないものであり、それを崇めることは悪霊どもにひざをかがめ、悪霊の仲間となる、サタンを崇め、サタンと契約を結ぶ行為に他なりません。何と恐ろしいことでしょうか。
しかし、人はその結果がどれほど恐ろしいものであるのかを知らずに、この恐ろしい行為を当たり前に犯してしまうのです。
サタンの仲間となった者の行く末は、神に敵対する者であり、その結果は当然永遠の滅びなのです。それは神に選ばれた民であっても同様。
神ならぬ神に仕え、神に敵対する者となる以上、その定めから逃れうることはできません。
偶像が作り出されるのは、人間が自らの欲望をかなえる都合のいい神を造り上げようというところから発生するものであることが、このイスラエルの反逆からよくわかると思います。
ですから、いかなる人の貪欲も、「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」のです。
この世と言われる場所はこの貪欲が生み出す偶像礼拝に満ちた場所です。
それは神を退け、自らの欲望を満たすことを何の躊躇もすることなく、むしろ自分のために、自分の力で生きる者を賞賛さえされる場所であるからです。
この数限りない偶像に、世(サタン)は巧妙にクリスチャンのひざをかがめさせようとします。
それはサタンの甘い誘惑を伴うものですが、私達はここに明確な決別を宣言しなければなりません。
【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
主イエスがこの世に公に姿を現され宣教の働きを始められるとき、サタンはこのように主イエスを誘惑しましたが、私達も主イエスに遣わされている世というものに一歩でも足を踏み入れるのであれば、主イエスの答えられたサタンに対する宣言を常にその内側に携えていなければなりません。
でないなら、人は容易にその誘惑に惹かれ偶像の元に姦淫を行い、サタンとの契約を結び、二度と戻ることのない永遠の滅びに落とされてしまうからです。
【民数記25:1-3,9】
25:1 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
25:2 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。
[中略]
25:9 しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。
このような世の戦いにどれほど多くの兄弟姉妹が飲み込まれ、本来与えられている命を失っていることでしょうか。
クリスチャン自らが自分の貪欲を制することができず、自ら作り出した偶像(自らの都合のいい恵みを与えてくれる都合のいい神やそこに導く数々の教え)に捕らえられる状況ですから、そこに聖別無くして、どうして世に立ち向かうことなどできるでしょうか。
しかし、時代は刻一刻と反キリストを迎える準備を整え、この反キリストにひざをかがめよと社会が要求するときが近づいているのです。
時代は信仰を失うか、信仰を守るため命をささげるかを問うほどに厳しさを増していく、それがこれから私達が向かおうとしている未来の姿です。
ですから、今ここに主にある信仰をしっかり持つ必要があるのです。
【ダニエル3:14-18】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
私達は今生きている社会においてでさえ、信仰に於いて妥協を要求されることがあるでしょう。
しかし、今社会常識という言葉や、生活のため、立場のためと、神に背く一抹の罪を責められる気持ちを持ちながらも理由をつけ、巧妙な言い訳を通して、信仰を譲る者は反キリストの登場を待たずして、日々サタンに近づき、かけがえのない永遠の命を明け渡し続ける者となるのです。
【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
今日あなたはどのような面持ちで社会(世)に出て行かれるでしょうか?
しかし、一歩そこを出るとき、あなたは神を選ぶか、自分を選ぶかという選択肢の中に足を踏み入れます。
そしてその選択はあなたを滅びに導く偶像の元に引き出すか、栄光の神の絶大なる祝福の元に導くかを明確に分ける選択肢です。
そのとき私達は、信頼する主に私達の全てをゆだねつつも、私達のいのちを主にささげて、世に、サタンに宣言する必要があります。
「3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:17,18)」
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