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世界に愛が沈み絶望が影差すとき
ながら見(※)の社会に一石が投じられる
決して目を離すことなきよう
神は自身の存在を永遠の愛の姿にのせて現される
背教 暗闇 世俗化 欲望渦巻く社会に飲み込まれて
偽りの豊かさに心奪われた聖徒達も
失われた時と世に奪われ失った
神の豊かさと麗しさに
涙を流し自らの汚れ爛(ただ)れた歩みを見
ただ悔いくずおれる
変わらぬ血潮の温かさと懐かしい愛に
無代価のただ注がれ続ける愛に
我を忘れた我を探し伸べ続けられた
その釘痕残る御手から溢るる愛に
我が心粉々に砕かるる
こぼれ落ち止まらぬ涙をその手はぬぐい
頬触れる温もりが我が心洗い新たにする
我が目はこれほどに地を這いずり回り
惨めに闇に飲まれていたのか
彼の愛はこれほどに高く揚げられ輝いていたのか
目を撃つ聖なる聖なる光輝きが眩しく懐かしい
この涙をただ地に流し染み込ますのみでなく
この涙を以てこの愛の訪れを叫ぼう
まだあなたは絶望するにあらずと
かの(彼の)愛を見よと
【創世記3:6-10】
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
※ながら見=スマホ片手に日がな一日、正面から事物を捉えるのではなく、斜めに小賢くスマートに社会をまた日常生活を生きようとする人々の姿
ながら見(※)の社会に一石が投じられる
決して目を離すことなきよう
神は自身の存在を永遠の愛の姿にのせて現される
背教 暗闇 世俗化 欲望渦巻く社会に飲み込まれて
偽りの豊かさに心奪われた聖徒達も
失われた時と世に奪われ失った
神の豊かさと麗しさに
涙を流し自らの汚れ爛(ただ)れた歩みを見
ただ悔いくずおれる
変わらぬ血潮の温かさと懐かしい愛に
無代価のただ注がれ続ける愛に
我を忘れた我を探し伸べ続けられた
その釘痕残る御手から溢るる愛に
我が心粉々に砕かるる
こぼれ落ち止まらぬ涙をその手はぬぐい
頬触れる温もりが我が心洗い新たにする
我が目はこれほどに地を這いずり回り
惨めに闇に飲まれていたのか
彼の愛はこれほどに高く揚げられ輝いていたのか
目を撃つ聖なる聖なる光輝きが眩しく懐かしい
この涙をただ地に流し染み込ますのみでなく
この涙を以てこの愛の訪れを叫ぼう
まだあなたは絶望するにあらずと
かの(彼の)愛を見よと
【創世記3:6-10】
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
※ながら見=スマホ片手に日がな一日、正面から事物を捉えるのではなく、斜めに小賢くスマートに社会をまた日常生活を生きようとする人々の姿
【ヨハネ13:1-17】
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
13:12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13:13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
13:16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
13:17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
ここに、教会において兄弟姉妹が互いに愛し合うことの、本質について語られています。
つまり、主が私達をどのように愛し、また私達が互いにどのように愛し合うことを、主が望んでおられるのかについて。
互いに愛し合うことを言葉にしたり、行動にしたりすること、教会において、それは見える形でわかる、クリスチャンらしさであり、信仰者のわかりやすい姿であると言えるでしょう。
また、そのように考えるべきであると、考え、あるいは教え、語り、教会が愛で溢れるように、努力することも、必要なことに思えるかも知れません。
しかし、ここにある主の思いはそのような「せねばならない」「あらねばならない」愛ではありません。
それは、親が子を慈しむような、あるいは本当に親しい友に大切なことを伝えるような、つまりは無理に注ごうとするのではなく、心の底から溢れ出て止まることのない愛であり、この愛を何か評したり、誇ったりするようなことのできない、最も純粋な愛の姿です。
そして、主はご自身が十字架にかかられる前夜、この大切な時を共に持つことを、切に願われていたのです。
それはご自身のこの最も純粋で深い愛について、ご自身の命をも友のためにささげようというほどの愛を、彼らにどうしても伝えたかったのであり、またそのような愛をもって互いに愛し合うことを、主が望んでいることを知って欲しいと願っていたからに違いありません。
【ヨハネ15:12-14】
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
そして、その愛をもって互いに仕え合うのが教会であるということを、身をもって現されました。
当時足を洗うことは奴隷の仕事でした。
ですから、主イエスがしたことは弟子達にとっては考えられないようなことであり、だからこそペテロは、主がそのようにされることを拒もうとしたのです。
しかし、その愛を受け取らなければ、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる(ヨハネ13:8)」と言われたのです。
それこそが教会における兄弟姉妹の互いに愛し合い仕え合う姿であり、それがなければ、同様に教会は互いに何の関係もなくなってしまうからです。
それも、奴隷に等しき最も低い者として互いに愛することを、主は願われました。
それは、足こそは人の最も汚れるところ、最も汚いところ、傷つき痛むところ、重荷を負い疲れているところであり、兄弟姉妹の最も罪で汚れ、傷つき痛み悲しみ、人生の重荷に押しつぶされているところには、最も低い者としてでなければ、向き合い、触れ、慰め、重荷を共に負うことはできないからです。
そのように互いを受け入れ、愛し合い、仕え合うのが、主が切に望む兄弟姉妹の姿だったのです。
これは非常に私達の愛の動機と純粋性を探る難しいことです。
なぜなら、本当に愛していなければ、そのようなことはできないからです。
そして、私達にそのような愛はないことを自分がよく知っている。
だから、主は私達の足を最も深い愛をもって、洗ってくださった。
この方が最も低い者として、私の汚れ果てた罪を十字架に流された血潮で洗い、その打ち傷をもって私の傷を負い、悲しみの人となって私の全ての悲しみと、押しつぶされる人生の重荷を、十字架の重さと共に負ってくださった。
さらにその愛をもって、日々世に出て汚れる、苦しみ、傷つく、私達の世との接地面である足を、いつもその十字架の血をもって洗ってくださる。
その止めどなく注がれ溢れる続ける主の愛を私達は知っているのです。
だから、この方の愛ゆえに、この方の愛する者をどうして愛さずにいられましょうか。
【ヨハネ5:1-3】
5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
このとき「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(ヨハネ4:12)」の言葉は成就し、神の完全なる愛の現れとしての教会を人は見ることになるのです。
【ヨハネ13:34,35】
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
これこそが愛による勝利です。
世は互いに党派心を持ち、互いに高い者となり、互いを支配しようとし、争い、憎しみ合います。
そのような者に、高い場所からの支配を与えるのはサタンであり、しかしその支配を受け取ってしまった者の結論は滅びであり、敗北です(詳しくは9/21のメッセージをお聞きください。)。
しかし、主イエスは愛する兄弟姉妹達に、そのようなものではない、主イエスが私達に注いだ愛を基とした、教会によって全うされた愛を世に見せつけ、完全なる愛による勝利を現したいのです。
【1ヨハネ4:18,19】
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
4:19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
私達に、この愛がなくとも、我が内に住まうキリストこそ「神は愛である。(ヨハネ4:8)」と言われる神に他なりません。
この方の愛が内にある限り、私達の愛は真実なものへと成長します。
だからこそ、主の注がれた愛をしっかりと受け止め、主を愛する愛をゆっくりと育み、やがて命をもささげて、なお余りある全うされた愛をもって、互いに愛し合う主イエスの切望される教会へと成長していこうではありませんか。
【雅歌8:4,6,7】
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
[中略]
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
主の切なる願いに心合わせ、共に、私達の内に主の愛が溢れ全うするよう祈って参りましょう。
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
13:12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13:13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
13:16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
13:17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
ここに、教会において兄弟姉妹が互いに愛し合うことの、本質について語られています。
つまり、主が私達をどのように愛し、また私達が互いにどのように愛し合うことを、主が望んでおられるのかについて。
互いに愛し合うことを言葉にしたり、行動にしたりすること、教会において、それは見える形でわかる、クリスチャンらしさであり、信仰者のわかりやすい姿であると言えるでしょう。
また、そのように考えるべきであると、考え、あるいは教え、語り、教会が愛で溢れるように、努力することも、必要なことに思えるかも知れません。
しかし、ここにある主の思いはそのような「せねばならない」「あらねばならない」愛ではありません。
それは、親が子を慈しむような、あるいは本当に親しい友に大切なことを伝えるような、つまりは無理に注ごうとするのではなく、心の底から溢れ出て止まることのない愛であり、この愛を何か評したり、誇ったりするようなことのできない、最も純粋な愛の姿です。
そして、主はご自身が十字架にかかられる前夜、この大切な時を共に持つことを、切に願われていたのです。
それはご自身のこの最も純粋で深い愛について、ご自身の命をも友のためにささげようというほどの愛を、彼らにどうしても伝えたかったのであり、またそのような愛をもって互いに愛し合うことを、主が望んでいることを知って欲しいと願っていたからに違いありません。
【ヨハネ15:12-14】
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
そして、その愛をもって互いに仕え合うのが教会であるということを、身をもって現されました。
当時足を洗うことは奴隷の仕事でした。
ですから、主イエスがしたことは弟子達にとっては考えられないようなことであり、だからこそペテロは、主がそのようにされることを拒もうとしたのです。
しかし、その愛を受け取らなければ、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる(ヨハネ13:8)」と言われたのです。
それこそが教会における兄弟姉妹の互いに愛し合い仕え合う姿であり、それがなければ、同様に教会は互いに何の関係もなくなってしまうからです。
それも、奴隷に等しき最も低い者として互いに愛することを、主は願われました。
それは、足こそは人の最も汚れるところ、最も汚いところ、傷つき痛むところ、重荷を負い疲れているところであり、兄弟姉妹の最も罪で汚れ、傷つき痛み悲しみ、人生の重荷に押しつぶされているところには、最も低い者としてでなければ、向き合い、触れ、慰め、重荷を共に負うことはできないからです。
そのように互いを受け入れ、愛し合い、仕え合うのが、主が切に望む兄弟姉妹の姿だったのです。
これは非常に私達の愛の動機と純粋性を探る難しいことです。
なぜなら、本当に愛していなければ、そのようなことはできないからです。
そして、私達にそのような愛はないことを自分がよく知っている。
だから、主は私達の足を最も深い愛をもって、洗ってくださった。
この方が最も低い者として、私の汚れ果てた罪を十字架に流された血潮で洗い、その打ち傷をもって私の傷を負い、悲しみの人となって私の全ての悲しみと、押しつぶされる人生の重荷を、十字架の重さと共に負ってくださった。
さらにその愛をもって、日々世に出て汚れる、苦しみ、傷つく、私達の世との接地面である足を、いつもその十字架の血をもって洗ってくださる。
その止めどなく注がれ溢れる続ける主の愛を私達は知っているのです。
だから、この方の愛ゆえに、この方の愛する者をどうして愛さずにいられましょうか。
【ヨハネ5:1-3】
5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
このとき「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(ヨハネ4:12)」の言葉は成就し、神の完全なる愛の現れとしての教会を人は見ることになるのです。
【ヨハネ13:34,35】
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
これこそが愛による勝利です。
世は互いに党派心を持ち、互いに高い者となり、互いを支配しようとし、争い、憎しみ合います。
そのような者に、高い場所からの支配を与えるのはサタンであり、しかしその支配を受け取ってしまった者の結論は滅びであり、敗北です(詳しくは9/21のメッセージをお聞きください。)。
しかし、主イエスは愛する兄弟姉妹達に、そのようなものではない、主イエスが私達に注いだ愛を基とした、教会によって全うされた愛を世に見せつけ、完全なる愛による勝利を現したいのです。
【1ヨハネ4:18,19】
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
4:19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
私達に、この愛がなくとも、我が内に住まうキリストこそ「神は愛である。(ヨハネ4:8)」と言われる神に他なりません。
この方の愛が内にある限り、私達の愛は真実なものへと成長します。
だからこそ、主の注がれた愛をしっかりと受け止め、主を愛する愛をゆっくりと育み、やがて命をもささげて、なお余りある全うされた愛をもって、互いに愛し合う主イエスの切望される教会へと成長していこうではありませんか。
【雅歌8:4,6,7】
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
[中略]
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
主の切なる願いに心合わせ、共に、私達の内に主の愛が溢れ全うするよう祈って参りましょう。
【1コリント15:55-57】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
主イエスキリストが与えてくださる勝利は私達が自分の手で勝ち取る勝利とは全く別次元のものです。
多くの人々にとっての勝利とは、自らの知恵や力を用いて、あるいは協力するなどして、結果として敗れる可能性のある戦いを戦って得るものです。
人の力には圧倒的な差というのはなかなか発生するものではありません。もちろんときにはそうしたことを味わうこともあるかも知れませんが、常にそのような勝利をするというものではありません。
ですから、敗れる可能性に恐れながらも、勝利のために自らを奮い起こし、あるいは全身全霊をもって、この戦いに望みます。
精神的にも勝利に集中し続け、あるいは何度も勝利をイメージし、心にそれを集中して刻みつけるようにしながら、毎日をそのために過ごしていく。
だからこそ自分に負けないという言葉のもと、自らを鼓舞して戦いに向かっていくしかない。
そこまでの努力や、積み重ねた日々重みが、勝利を得たとき、自らの達成感と共に、自らの栄光として帰ってくる。
これが世にあるところの勝利者でしょう。
この世においては、このように自らを注いで、あらゆる面において勝利を得ていく者を、人生の勝利者と呼び、賞賛の対象とし、理想として崇め、自らがそのようになりたいと思いながらも、現実は勝利でき切れない生活の中に生きていると考えている方も多くあるのではないでしょうか。
これが理想と現実のように。
【詩篇39:4-7】
39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。[セラ
39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。
しかし、それらは人が力を失えば、また何か一つの歯車が狂ってしまえば失ってしまう勝利。
すぐにそれは幻と消え、過去の栄光と言う名の下に、移ろいゆく影のようにやがて全てが消え去って、その栄光があったことすら人々が覚えていることはありません。
何と儚い勝利を人は、追い求め、賞賛していることでしょうか。
ですから、主イエスキリストはこのようなことを決して勝利とは呼んでいません。
また、主は私達にそれを要求されているわけでもないし、そのような生き方を勝利者の生き方と呼ぶこともありません。
主イエスが与えてくださる勝利は、すでに完成された勝利です。
そしてこの世に対する完全な勝利であり、またこの戦いは私達の何かに任せられているのではなく、主イエスが勝ち取られたただ一度の完全なる勝利によって、全てが勝利の内に飲み込まれ、完成したという勝利です。
【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
【1ヨハネ5:4,5】
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
つまり、主イエスキリストはただ一度十字架にかかられ、このことにより、主は世に勝ち(ヨハネ16:33、1ヨハネ5:4,5)、サタンに勝ち(ヘブル2:14,15)、肉に勝ち(ガラテヤ5:24)、罪に勝ち(1コリント15:55)、死に勝たれた(1コリント15:55)のです。
そう、私達の生きる全てを脅かしてきた死にすら完全に打ち勝たれた。
ですから、この世にある、あらゆるものも、私達を恐れさせることはできません。
主イエスキリストは十字架によって、私達を取り巻くありとあらゆる事に勝利をおさめられた(ローマ8:35-39)のです。
これにより、この十字架の下に来る者(私達)に、この圧倒的な勝利を与え、さらにはこの勝利によって、何を勝ち得られ、何を完成されたのかを見せてくださるのです。
【黙示録】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
主イエスは今、私達を主ご自身の幕屋として、その内に住まわれ、永遠に離れることなく私達と共にいてくださるのです。
もはや涙を流す必要はありません。
死も、悲しみも、嘆きも、痛みも、主が私達の死に打ち勝たれ、全てに打ち勝たれ、よみがえられたのです。
そして、私達をこの地にいながらも、主が私達に与えてくださった新しい命、神の国をつぐことの証印としての聖霊(エペソ1:13,14)によって、この天の御国、完成された新エルサレム、永遠の都に、入らせてくださるのです。
これは絵空事でも幻でもありません。
この事実があなたが救われた時に与えられた絶対的な平安であり、あなたはそのときから、この永遠の都に住まう素晴らしさを霊の内に知り、喜んでいたのです。
さらには、主がおられるのであれば何があろうとも平気である感じられたあの平安は、全てに勝利を、あなた自身がすでに得ていた確証であったのです。
すでに勝負は済んでしまっていたのです。
あなたの戦いは主がすでに戦い、勝利を完成していてくださっていたのです。
あなたはこの勝利に基づき、十字架の下に、このキリストの流された血の契約により、全ての面、全ての事において、勝利を受け取る歩みを進めればよいだけなのです。
なぜ、敗れたかのように悩んでいるのでしょう。
なぜ、失ったかのように悲しんでいるのでしょう。
なぜ、世にあるものに怯えて、恐れの内に閉じこもっているの必要があるのでしょう。
なぜ、人生に絶望することがありますか。
勝利を味わう人生は、すでにあなたの内に来ているのです。
この十字架にある勝利の確信は初めから私達に与えられており、この確信において、全てのものを受け取ればいいのです。
天に於いて完成したものは、必ず地に於いてその完成は現れます。
あなたのすでに天に於いて受け取ったものは、地に於いて必ず現れるでしょう。
恐れる必要はないのです。
さあ、主イエスキリストにあって、勝利者としての歩みを始めましょう。
※メッセージで引用した聖書箇所です。ご参照ください。
【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
【ガラテヤ5:24】
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
【ローマ8:35-39】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(新改訳では「圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。)
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
主イエスキリストが与えてくださる勝利は私達が自分の手で勝ち取る勝利とは全く別次元のものです。
多くの人々にとっての勝利とは、自らの知恵や力を用いて、あるいは協力するなどして、結果として敗れる可能性のある戦いを戦って得るものです。
人の力には圧倒的な差というのはなかなか発生するものではありません。もちろんときにはそうしたことを味わうこともあるかも知れませんが、常にそのような勝利をするというものではありません。
ですから、敗れる可能性に恐れながらも、勝利のために自らを奮い起こし、あるいは全身全霊をもって、この戦いに望みます。
精神的にも勝利に集中し続け、あるいは何度も勝利をイメージし、心にそれを集中して刻みつけるようにしながら、毎日をそのために過ごしていく。
だからこそ自分に負けないという言葉のもと、自らを鼓舞して戦いに向かっていくしかない。
そこまでの努力や、積み重ねた日々重みが、勝利を得たとき、自らの達成感と共に、自らの栄光として帰ってくる。
これが世にあるところの勝利者でしょう。
この世においては、このように自らを注いで、あらゆる面において勝利を得ていく者を、人生の勝利者と呼び、賞賛の対象とし、理想として崇め、自らがそのようになりたいと思いながらも、現実は勝利でき切れない生活の中に生きていると考えている方も多くあるのではないでしょうか。
これが理想と現実のように。
【詩篇39:4-7】
39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。[セラ
39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。
しかし、それらは人が力を失えば、また何か一つの歯車が狂ってしまえば失ってしまう勝利。
すぐにそれは幻と消え、過去の栄光と言う名の下に、移ろいゆく影のようにやがて全てが消え去って、その栄光があったことすら人々が覚えていることはありません。
何と儚い勝利を人は、追い求め、賞賛していることでしょうか。
ですから、主イエスキリストはこのようなことを決して勝利とは呼んでいません。
また、主は私達にそれを要求されているわけでもないし、そのような生き方を勝利者の生き方と呼ぶこともありません。
主イエスが与えてくださる勝利は、すでに完成された勝利です。
そしてこの世に対する完全な勝利であり、またこの戦いは私達の何かに任せられているのではなく、主イエスが勝ち取られたただ一度の完全なる勝利によって、全てが勝利の内に飲み込まれ、完成したという勝利です。
【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
【1ヨハネ5:4,5】
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
つまり、主イエスキリストはただ一度十字架にかかられ、このことにより、主は世に勝ち(ヨハネ16:33、1ヨハネ5:4,5)、サタンに勝ち(ヘブル2:14,15)、肉に勝ち(ガラテヤ5:24)、罪に勝ち(1コリント15:55)、死に勝たれた(1コリント15:55)のです。
そう、私達の生きる全てを脅かしてきた死にすら完全に打ち勝たれた。
ですから、この世にある、あらゆるものも、私達を恐れさせることはできません。
主イエスキリストは十字架によって、私達を取り巻くありとあらゆる事に勝利をおさめられた(ローマ8:35-39)のです。
これにより、この十字架の下に来る者(私達)に、この圧倒的な勝利を与え、さらにはこの勝利によって、何を勝ち得られ、何を完成されたのかを見せてくださるのです。
【黙示録】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
主イエスは今、私達を主ご自身の幕屋として、その内に住まわれ、永遠に離れることなく私達と共にいてくださるのです。
もはや涙を流す必要はありません。
死も、悲しみも、嘆きも、痛みも、主が私達の死に打ち勝たれ、全てに打ち勝たれ、よみがえられたのです。
そして、私達をこの地にいながらも、主が私達に与えてくださった新しい命、神の国をつぐことの証印としての聖霊(エペソ1:13,14)によって、この天の御国、完成された新エルサレム、永遠の都に、入らせてくださるのです。
これは絵空事でも幻でもありません。
この事実があなたが救われた時に与えられた絶対的な平安であり、あなたはそのときから、この永遠の都に住まう素晴らしさを霊の内に知り、喜んでいたのです。
さらには、主がおられるのであれば何があろうとも平気である感じられたあの平安は、全てに勝利を、あなた自身がすでに得ていた確証であったのです。
すでに勝負は済んでしまっていたのです。
あなたの戦いは主がすでに戦い、勝利を完成していてくださっていたのです。
あなたはこの勝利に基づき、十字架の下に、このキリストの流された血の契約により、全ての面、全ての事において、勝利を受け取る歩みを進めればよいだけなのです。
なぜ、敗れたかのように悩んでいるのでしょう。
なぜ、失ったかのように悲しんでいるのでしょう。
なぜ、世にあるものに怯えて、恐れの内に閉じこもっているの必要があるのでしょう。
なぜ、人生に絶望することがありますか。
勝利を味わう人生は、すでにあなたの内に来ているのです。
この十字架にある勝利の確信は初めから私達に与えられており、この確信において、全てのものを受け取ればいいのです。
天に於いて完成したものは、必ず地に於いてその完成は現れます。
あなたのすでに天に於いて受け取ったものは、地に於いて必ず現れるでしょう。
恐れる必要はないのです。
さあ、主イエスキリストにあって、勝利者としての歩みを始めましょう。
※メッセージで引用した聖書箇所です。ご参照ください。
【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
【ガラテヤ5:24】
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
【ローマ8:35-39】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(新改訳では「圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。)
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
【エペソ4:30】
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
新しい命として与えられ、私達の内に住まう神。栄光の望みである、私達の内にいますキリスト(コロサイ1:27)。
神の測り知れない力を持つ土の器の中にある宝(2コリント4:7)。
この一方的な恵みである、人知を超えた奇跡、神が私達の内に住まうということが今まさになされている。
私達はこの恵みを本当に知っているでしょうか?
この奇跡を実感しているでしょうか?
今日の聖句において、重要な一つのことが語られています。
聖霊には感情があるのです。だから聖霊は悲しむ。
そして、私達はこの聖霊の思いを知ることがゆるされています。
それはキリストの思いを知ることでもある。
【1コリント2:10-16】
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
主の思い、聖霊の思いを私達は、私達自身の思い、心とは別に私達の内に感じることができます。この聖霊との交わり(2コリント13:13)。ここに御霊に導かれる歩み(ガラテヤ5:16-18)があります。
主が何を喜ばれ、何に怒り、何を悲しまれるのか。第一に私達はこのような形で主の思いを知り、主に導かれるのです。
もしも、この主の思いを知りながら、自分の思いを優先し、この思いを退け、逆らうならどうなるでしょうか?
聖霊は悲しまれるのです。
このとき私達の心は神に逆らい、神から離れようとしているからです。
ここに罪の感覚が存在します。
この状態を放置し、主の思いを無視し続け、主を悲しませ続けることは、自らの自由(放縦)を求める思いの前には簡単のことです。
しかしこれは非常に危険なことです。
なぜなら、この聖霊の語りかけを無視し続けるなら、私達は無感覚になり、主を悲しませることを何とも思わず、何でもできるようなり、罪を犯し続けてしまうからです。
【エペソ4;17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
ですから、この聖霊を悲しませるという感覚、聖霊の警告を無視すべきではありません。
その人はせっかく救われたのに、自らの足で永遠の滅びに日々近づこうとしているからです。
そして、その感覚は、逆らえば逆らうほど無感覚になっていくという恐ろしいもの。実はそれ自体がさばきであるのです。
【ルカ12:10】
12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。
聖霊は、私達と神との直接の交わりを与えてくださる神の奇跡です。しかし、これに逆らい続け、拒み続けるならば、もう神の元に戻るための道を自らが閉ざすことになるのです。
この聖霊を受け入れたところから、私達の救いが始まったのなら、この聖霊を拒絶することは救いを拒絶し、滅びを日々決定づけるものとなるのです。
これが罪を犯し続けること、聖霊をけがす罪という恐ろしいことの結論です。
私達が聖霊を悲しませることは、とても小さく、簡単にそれを踏み越えることができるでしょう。
主は私達をゆるしてくださると、「これくらいはゆるしてください」と言いながら、簡単に神に罪への妥協を要求します。
しかし、主は私達の罪を悔い改めるなら、つまり神へと方向転換するなら、犯した罪はゆるされるのであり、決して罪を犯し続ける者を無条件にゆるされるわけではありません。
そのままゆるしを得ず、犯し続けた罪の、罪から来る報酬(ローマ6:23)は永遠の滅びであることに何の変わりはないのです。
ですが、このようなことのために私達は新しい命(聖霊)を受けたのではありません。
聖霊はやがて私達の体が全く贖われる日(ローマ8:23)に向かって、私達を証印として導くものです。
【1コリント】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
内なる聖霊のこの感覚は私達に神の国を継がせ(エペソ1:13,14)ます。
私達に朽ちないものを着させるために、キリストの花嫁として神の国に永遠に住まうにふさわしい者とするために、聖霊は私達を導くのです。
【2コリント】
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
ですから、主を悲しませることを求めるのではなく、主を喜ばせることを望んで歩み続けましょう。
そこには私達の肉の目には見えないけれど、霊の目には後の日の栄光を見続け、その栄光を求め続けて歩む栄光の歩みが広がっているのです。
【2コリント】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
今この主の思いに無感覚になっている兄弟姉妹がいるならば、主イエスの十字架の前に悔い改めて、主が喜ばれない全てのことを(罪を)、ひとつひとつ退け、取り除き(聖別)、主が喜ばれることをひとつひとつ選択して歩むように日々を変えていきましょう。
罪を求めるのではなく、主の栄光を求める生活を建て上げていきましょう。
主にあわれみを求めて共に祈りましょう。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【コロサイ】
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
【2コリント4:7】
4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
【2コリント13:13】
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。
【ガラテヤ5:16-18】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
【ローマ6:15-23】
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
新しい命として与えられ、私達の内に住まう神。栄光の望みである、私達の内にいますキリスト(コロサイ1:27)。
神の測り知れない力を持つ土の器の中にある宝(2コリント4:7)。
この一方的な恵みである、人知を超えた奇跡、神が私達の内に住まうということが今まさになされている。
私達はこの恵みを本当に知っているでしょうか?
この奇跡を実感しているでしょうか?
今日の聖句において、重要な一つのことが語られています。
聖霊には感情があるのです。だから聖霊は悲しむ。
そして、私達はこの聖霊の思いを知ることがゆるされています。
それはキリストの思いを知ることでもある。
【1コリント2:10-16】
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
主の思い、聖霊の思いを私達は、私達自身の思い、心とは別に私達の内に感じることができます。この聖霊との交わり(2コリント13:13)。ここに御霊に導かれる歩み(ガラテヤ5:16-18)があります。
主が何を喜ばれ、何に怒り、何を悲しまれるのか。第一に私達はこのような形で主の思いを知り、主に導かれるのです。
もしも、この主の思いを知りながら、自分の思いを優先し、この思いを退け、逆らうならどうなるでしょうか?
聖霊は悲しまれるのです。
このとき私達の心は神に逆らい、神から離れようとしているからです。
ここに罪の感覚が存在します。
この状態を放置し、主の思いを無視し続け、主を悲しませ続けることは、自らの自由(放縦)を求める思いの前には簡単のことです。
しかしこれは非常に危険なことです。
なぜなら、この聖霊の語りかけを無視し続けるなら、私達は無感覚になり、主を悲しませることを何とも思わず、何でもできるようなり、罪を犯し続けてしまうからです。
【エペソ4;17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
ですから、この聖霊を悲しませるという感覚、聖霊の警告を無視すべきではありません。
その人はせっかく救われたのに、自らの足で永遠の滅びに日々近づこうとしているからです。
そして、その感覚は、逆らえば逆らうほど無感覚になっていくという恐ろしいもの。実はそれ自体がさばきであるのです。
【ルカ12:10】
12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。
聖霊は、私達と神との直接の交わりを与えてくださる神の奇跡です。しかし、これに逆らい続け、拒み続けるならば、もう神の元に戻るための道を自らが閉ざすことになるのです。
この聖霊を受け入れたところから、私達の救いが始まったのなら、この聖霊を拒絶することは救いを拒絶し、滅びを日々決定づけるものとなるのです。
これが罪を犯し続けること、聖霊をけがす罪という恐ろしいことの結論です。
私達が聖霊を悲しませることは、とても小さく、簡単にそれを踏み越えることができるでしょう。
主は私達をゆるしてくださると、「これくらいはゆるしてください」と言いながら、簡単に神に罪への妥協を要求します。
しかし、主は私達の罪を悔い改めるなら、つまり神へと方向転換するなら、犯した罪はゆるされるのであり、決して罪を犯し続ける者を無条件にゆるされるわけではありません。
そのままゆるしを得ず、犯し続けた罪の、罪から来る報酬(ローマ6:23)は永遠の滅びであることに何の変わりはないのです。
ですが、このようなことのために私達は新しい命(聖霊)を受けたのではありません。
聖霊はやがて私達の体が全く贖われる日(ローマ8:23)に向かって、私達を証印として導くものです。
【1コリント】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
内なる聖霊のこの感覚は私達に神の国を継がせ(エペソ1:13,14)ます。
私達に朽ちないものを着させるために、キリストの花嫁として神の国に永遠に住まうにふさわしい者とするために、聖霊は私達を導くのです。
【2コリント】
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
ですから、主を悲しませることを求めるのではなく、主を喜ばせることを望んで歩み続けましょう。
そこには私達の肉の目には見えないけれど、霊の目には後の日の栄光を見続け、その栄光を求め続けて歩む栄光の歩みが広がっているのです。
【2コリント】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
今この主の思いに無感覚になっている兄弟姉妹がいるならば、主イエスの十字架の前に悔い改めて、主が喜ばれない全てのことを(罪を)、ひとつひとつ退け、取り除き(聖別)、主が喜ばれることをひとつひとつ選択して歩むように日々を変えていきましょう。
罪を求めるのではなく、主の栄光を求める生活を建て上げていきましょう。
主にあわれみを求めて共に祈りましょう。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【コロサイ】
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
【2コリント4:7】
4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
【2コリント13:13】
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。
【ガラテヤ5:16-18】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
【ローマ6:15-23】
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
【出エジプト12:1-20】
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
(新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ(年の頭の意)」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。(民数記29:1)」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。)
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。
【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。
【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。
【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。
【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
(新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ(年の頭の意)」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。(民数記29:1)」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。)
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。
【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。
【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。
【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。
【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
【ピリピ1:6】
1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
全ての良いわざは主から始まり、主により完成します。
私達の何ものかによることはありません。
私達の思いつきも、主の元に持って行くのでなければ、それが主からのものであるのか、自分の思いからなのかもわかりません。
そのことが主が望まれることなのか、主が喜ばれるのか、それともそうではないのかもわかりません。
【箴言19:21】
19:21 人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。
そして、全ての動機がどこにあるのか、そのことはとても重要なことです。
それは自分自身の満足のためのものなのか、主の満足のためにそれを願うのか。
【2コリント5:14,15】
5:14 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
もちろん主の満足のみを求めると言っても、自分に喜びがあってはいけないという意味では全くありません。
主の喜ばれることを私達が願うとき、私達の心の内は主の喜びで満たされ、平安が満ち溢れるからです。
しかし、逆に自分を満足させるために神の名を使い、神のためにそれをするかのように大義名分を作ることを人はよくします。
残念ながら、そのような偽りを主が見逃されることはなく、また喜ばれようはずはありません。
【マタイ7:21-23】
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
その動機が神だけの目的のものであれば、それが自らの手から離れても喜ぶし、また多くの人に賞賛されることなく、むしろ神の目だけを喜ばすものであっても、それを望むでしょう。
【マタイ6:1,4】
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
[中略]
6:4 すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
それがたとえ人の目には無駄に見えたとしても、神が喜ばれることのために自らの全てをささげることになっても、そのことを喜んで行うことでしょう。
(マリヤの香油,マタイ26:6-13、2枚のレプタ銅貨の寡婦,マルコ12:41-44、十字架,イザヤ53:2-6)
主は人の心の全ての奥底までをご覧になられ、その計画が主の思いにかなうものなのかを見極められます。
また人の思いを主の思いにかなうものとなることを願い、私達をその心ごと、思いごと導かれます。
だから、主はそのような人の心の全てをご存知で、その計画の全てを主の御手にまずゆだねることを願われるのです。
【箴言16:1-3】
16:1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
16:3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
ここから神の良いわざが始められます。
この方が始められた以上、その全ては必ず神の手により完成されます。
なぜなら、神は「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。(黙示録21:6)」と言われる方であり、この方が「事はすでに成った。(黙示録21:6)」と言われ、全てを完成されたからです。
この方を初めとするのであれば、主がその終わりを完成されるのです。
その過程において、人がどのように関与するとか、人の努力をどれほど必要としているとか、現実がどれほどその完成への道のりからかけ離れているように見えるとか。
そのようなことは一切関係がありません。
人はそのような目に見えることに心揺れ動き、その計画の完成への確信を揺らがせることがありますが、
全ては主が完成してくださるのです。
もちろん、この行程において、私達が何かしらの形でこの計画に参画し、その全行程を見ながら主の素晴らしさを仰ぎ見続ける、そのような光栄にあずかることもあるでしょう。
でも、主が私達に見せたいのは主の力、主の愛、絶大なる主の素晴らしさ、麗しさ、その栄光そのものであり、主は、愛する者にはこのようにするのだと、この全地にその絶大なるわざを見せつけられるのです。(エペソ3:8-11,17-21)
だから主は取るに足りない私達のうちに良いわざを始められ、ご自身の手によって、主が再びこの地に来てくださるその日までに、全てを完成してくださるのです。
そしてまさにそのとき、私達はこの地に「キリストと共に栄光のうちに現れ(コロサイ3:4)」、全ては主が完成してくださったわざに他ならないのに、私達の行いをもって、主は私達に報いを与えてくださるのです。
【エペソ6:8】
6:8 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
【2コリント5:9,10】
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
だから主は私達にみこころのままに志を立てさせ、全てを完成に導いてくださる(ピリピ2:13)のです。
なんと素晴らしい、主のみわざ。
なんと麗しき主の栄光。
なんと大いなる主の愛。
それは主が私達をご自身の助け手として、キリストの花嫁として召されたからなのです。
主はご自身のみわざを、私達を通して現されることを喜ばれるのです。
さあ、臆することなく主の前に出て、心の内の全てを主にゆだね、主の喜びと栄光を求めて、祈って参りましょう。
ただ、主のみこころのみが全地になりますように。
※メッセージ内の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【マタイ26:6-13】
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、
26:7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。
26:9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
26:10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
26:13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
【マルコ12:41-44】
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
【イザヤ53:2-6】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
【エペソ3:17-21】
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
【エペソ3:8-11】
3:8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
3:11 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。
【コロサイ3:4】
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
【ピリピ2:13(新改訳)】
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
全ての良いわざは主から始まり、主により完成します。
私達の何ものかによることはありません。
私達の思いつきも、主の元に持って行くのでなければ、それが主からのものであるのか、自分の思いからなのかもわかりません。
そのことが主が望まれることなのか、主が喜ばれるのか、それともそうではないのかもわかりません。
【箴言19:21】
19:21 人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。
そして、全ての動機がどこにあるのか、そのことはとても重要なことです。
それは自分自身の満足のためのものなのか、主の満足のためにそれを願うのか。
【2コリント5:14,15】
5:14 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
もちろん主の満足のみを求めると言っても、自分に喜びがあってはいけないという意味では全くありません。
主の喜ばれることを私達が願うとき、私達の心の内は主の喜びで満たされ、平安が満ち溢れるからです。
しかし、逆に自分を満足させるために神の名を使い、神のためにそれをするかのように大義名分を作ることを人はよくします。
残念ながら、そのような偽りを主が見逃されることはなく、また喜ばれようはずはありません。
【マタイ7:21-23】
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
その動機が神だけの目的のものであれば、それが自らの手から離れても喜ぶし、また多くの人に賞賛されることなく、むしろ神の目だけを喜ばすものであっても、それを望むでしょう。
【マタイ6:1,4】
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
[中略]
6:4 すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
それがたとえ人の目には無駄に見えたとしても、神が喜ばれることのために自らの全てをささげることになっても、そのことを喜んで行うことでしょう。
(マリヤの香油,マタイ26:6-13、2枚のレプタ銅貨の寡婦,マルコ12:41-44、十字架,イザヤ53:2-6)
主は人の心の全ての奥底までをご覧になられ、その計画が主の思いにかなうものなのかを見極められます。
また人の思いを主の思いにかなうものとなることを願い、私達をその心ごと、思いごと導かれます。
だから、主はそのような人の心の全てをご存知で、その計画の全てを主の御手にまずゆだねることを願われるのです。
【箴言16:1-3】
16:1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
16:3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
ここから神の良いわざが始められます。
この方が始められた以上、その全ては必ず神の手により完成されます。
なぜなら、神は「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。(黙示録21:6)」と言われる方であり、この方が「事はすでに成った。(黙示録21:6)」と言われ、全てを完成されたからです。
この方を初めとするのであれば、主がその終わりを完成されるのです。
その過程において、人がどのように関与するとか、人の努力をどれほど必要としているとか、現実がどれほどその完成への道のりからかけ離れているように見えるとか。
そのようなことは一切関係がありません。
人はそのような目に見えることに心揺れ動き、その計画の完成への確信を揺らがせることがありますが、
全ては主が完成してくださるのです。
もちろん、この行程において、私達が何かしらの形でこの計画に参画し、その全行程を見ながら主の素晴らしさを仰ぎ見続ける、そのような光栄にあずかることもあるでしょう。
でも、主が私達に見せたいのは主の力、主の愛、絶大なる主の素晴らしさ、麗しさ、その栄光そのものであり、主は、愛する者にはこのようにするのだと、この全地にその絶大なるわざを見せつけられるのです。(エペソ3:8-11,17-21)
だから主は取るに足りない私達のうちに良いわざを始められ、ご自身の手によって、主が再びこの地に来てくださるその日までに、全てを完成してくださるのです。
そしてまさにそのとき、私達はこの地に「キリストと共に栄光のうちに現れ(コロサイ3:4)」、全ては主が完成してくださったわざに他ならないのに、私達の行いをもって、主は私達に報いを与えてくださるのです。
【エペソ6:8】
6:8 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
【2コリント5:9,10】
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
だから主は私達にみこころのままに志を立てさせ、全てを完成に導いてくださる(ピリピ2:13)のです。
なんと素晴らしい、主のみわざ。
なんと麗しき主の栄光。
なんと大いなる主の愛。
それは主が私達をご自身の助け手として、キリストの花嫁として召されたからなのです。
主はご自身のみわざを、私達を通して現されることを喜ばれるのです。
さあ、臆することなく主の前に出て、心の内の全てを主にゆだね、主の喜びと栄光を求めて、祈って参りましょう。
ただ、主のみこころのみが全地になりますように。
※メッセージ内の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【マタイ26:6-13】
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、
26:7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。
26:9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
26:10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
26:13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
【マルコ12:41-44】
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
【イザヤ53:2-6】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
【エペソ3:17-21】
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
【エペソ3:8-11】
3:8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
3:11 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。
【コロサイ3:4】
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
【ピリピ2:13(新改訳)】
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
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