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【詩篇48篇】
コラの子の歌、さんび
48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。
48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを高きやぐらとして現された。
48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。[セラ
48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちであなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。
48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。
48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

神を喜び、主を賛美する者は、やがてその喜びに満ちた賛美の内に、ある所にたどり着くでしょう。
その賛美の中心地、賛美が永遠にとどまることなく、その中心には主ご自身が居られる場所。
永遠の都、聖なる都、新エルサレム。
そして、この都の内にいる者は地上のエルサレムが山に囲まれた堅固な要塞であるように、主の永遠の統治の内に、主ご自身が「火の城壁(ゼカリヤ2:5)」となり私達を囲み、ご自身の栄光でその内を満たされるでしょう。
主こそ我らのやぐら(詩篇18:2)となり、私達をあらゆる危険から常に守られるのです。
これに挑もうとする如何なる者もこれに太刀打ちできません。
その心は都を見るや主の恐れと、都に現された主の力と栄光を見て恐れ、急ぎ逃げ去るのです。
そして私達はこの絶対的な安全な場所、何ものにも揺るがされることのない主の宮のうちに、主のいつくしみを思い、絶え間なくその唇は賛美が溢れ出る。
この賛美は地の果てにまで溢れ出て多くの聖徒達も同様に祈りの内にこの都で賛美をささげ、それが全地を覆っているのがわかるでしょう。
まさに主の永遠の都は今ここにあり、永遠の神の国においては、やがて来るべき神の都は霊に満ちる祈りの内に現れ、圧倒的勝利の内に完成している(ヨハネ19:30,黙示録21:6)のです。
その勝利はこの地を飲み込むほどのもの。私達を取り囲んでいた困難も悩みも問題も全てはこの中に飲み込まれ主の勝利の内に全てが最善の形で完了してしまう。
私達の賛美とは、祈りとは、礼拝とは、そのようなものです。
つまりは私達は、主にひたすらに心を向け、神を信じ、この方の良くしてくださった事を何一つ忘れず、数え、ほめたたえ、また今私達が直面するあらゆることにおいても、主に願い求めるのなら必ず主が報いてくださる(ヘブル11:6)ことを信じ、主をほめたたえるなら、この宮の内に、都の内に私達の賛美は、祈りは、引き上げられる。
そして、天にある礼拝(黙示録4,5章)の内に自分も入れられていることを知るでしょう。
それは神の子羊の御前、永遠の勝利者であられる方の前に集うものであり、この場所から全地の裁きが下ることを知るでしょう。
ここにすべての勝利の源たる方が居られ、神の義により正しく裁きがなされている。
私達は、この王なる方の花嫁とされているのです。
私達を取り囲むあらゆることを超え、死を超えて、この主の御前に主だけを求めて、主への賛美の内に出るとき、主は金の勺をもって、あなたの願いを、あなたの名を呼び聞き入れてくださるでしょう。
「何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう(エステル5:3)」と。
だから、私達は主をほめたたえ得ないと思われるような状況に於いても、主をほめたたえ、主の御前に出るのです。
この方はあなたを愛し、私達が何ものを頼りとせず、主だけを愛し、この主だけが素晴らしき方と近づくのを、けっして無にされる方ではありません。
あなたを愛して止まないゆえに、勝利と恵みに満たして余りあるものとされるでしょう。
だから私達はなおさらに主をほめたたえ、「主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめる(詩篇27:4)」ことを永遠の望みとするでしょう(詩篇48:12,13)。

だから主を喜ぶことは私達の力なのです(ネヘミヤ8:10)。
「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにし(ヘブル12:12)」、しっかり立って、
今日も、主の素晴らしさを仰ぎ、賛美しましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ2:4,5】
2:4 言った、「走って行って、あの若い人に言いなさい、『エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。
2:5 主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。

【詩篇18:1-3】
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

【ヨハネ19:30】
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

【ヘブル11:6】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【詩篇27:4】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

【ネヘミヤ8:10】
8:10 憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

【ヘブル12:11,12】
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
2015/05/13(水) 14:35 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【詩篇100篇】
感謝の供え物のための歌
100:1 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
100:4 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

主が私達の神であること、これに勝る喜びはありません。
この方を神とすることは、「わたしは有る(出エジプト3:14)」という方を私の神とするということであり、私の根源(創造主)とするということです。
それは私達を、主に造られた被造物としての本来の位置に、安息させるものです。(全てのものは本来あるべき場所に収まると安心するものだからです。)
常に「有って有られる方(出エジプト3:14)」。永遠に現在に有られる方。この方が万物が有るということの根源であり、この方を神とするということは私自身の存在を、この神の元に永遠に有る者とするということです。
それは私達の存在が永遠に保証されるというものです。これほどに、心に平安を与えることは他にないでしょう。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

誰でも自分の存在できる場所を求めてさまよい、存在できるために努力し、葛藤する。それがこの世の常であるのに、主を神とするということは、それだけで平安が満ち、その渇望を充分に満たしてあまりあるものとなるのです。

またこの方が神(創造主)であるということは、万物が主のものであるように、私達自身も主のものであるということです。
つまり、この方を我が神とするということは、この方の民となるという事であり、もっと驚くべき事に、主イエスの贖いが成し遂げられた現在においては、この方の子、神の子とされるということなのです。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

これが私達の喜びの根源です。
この喜びは世が与えるいかなる悦びとは異なります。
この世の悦びは私達の状況が変われば消え失せるものです。
その悦びの根源となっている事自体が、消え失せる朽ちるものの上に成り立っているのですから、それははかなく消え失せ、移ろいゆくものであると言わざるを得ないでしょう。
この悦びを集めて、幸せな人生を築こうとするなら、人は簡単に絶望の中に身を沈めます。これが世の与えるものです。

【伝道者1:2-4,12:13,14】
1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
 [中略]
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

しかし、私達が主を神とし、この方自身を私達の喜びの根源とするとき、主に与えられた私達の命は、内側から喜びの声を上げ、その喜びは賛美となって主をほめずにはいられないものとなるでしょう。

【ローマ14:17】
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

そのほめたたえる声はもうとどめることはできません。
やがて、大きな大きな賛美となって、私達は天の主の宮の大庭で、とどまることのない賛美をささげ続けるため、集められる。
地の教会はそのようにとどめることのできない賛美をささげ続けるために集まり、各々に与えられた喜びは溢れ溢れて、大きな喜びとなってその全体を満ち溢れさせるものとなるでしょう。

【詩篇100:4,5】
100:4 主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

さらにその喜びは主への感謝とそのみ名をほめたたえて、世代を越え、地域、空間を越えて溢れ、多くの造られた者達に主をほめたたえさせるものとなるでしょう。

【詩篇150:6】
150:6 息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。

だから、今主の甘き御名を呼び、主を喜び、賛美することを始めましょう。
どんなに小さな声からでも、いいのです。
この喜びはやがてこのようにとどめられることなく、全地を覆う賛美となるのですから。
2015/04/08(水) 23:28 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【申命記10:12-16】
10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
10:14 見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
10:15 そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私達がなぜ主に選ばれ、救われたのか、その理由は全くわかりません。
おそらく、その理由は永遠にわからないでしょう。
私達に何らかの理由があって、神が救う価値があるとして救われた。
そのようなものは、私には何も見当たりません。
私には主を喜ばせるものは何もなく、むしろ生来の性質は、常に主に逆らい、甚だしく悪しき罪に汚れた罪人。主から離れ、自分の事のみに没頭して生きてきました。
神に愛されることなど知りもしませんでしたから、神を愛することなど到底考えもしませんでした。
私の迎えるこの一日がすべて自分の力で支えられていると信じ、そのすべてが神の恵みによって支えられていたことなど露も知りませんでした。

そんな私を主は愛してくださいました。
それは主からの一方的な愛でした。
主はそんな主も知らず逆らうだけの何の価値もない者を、何の得もないであろうに救ってくださったのです。
天地万物のすべては主のものです。
この方がすべてを造り、そのすべてを今も、また永遠に統べ治めておられます。
そんな壮大な想像すらつかない方が、その持ちゆるすべてのものを置いて、あたかも私が主のものでなければ、それらのものが何の意味もなく、何の価値もないかのように、私のために地に下られ、ご自身のすべてを私にくださいました。
その命までも。
神の御子である方の命という絶大なる価値ある犠牲(十字架)に、私など見合うものではありません。
なのに主は、「今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。(申命記10:12)」と言われるのです。
「ただこれだけ」です。
私が主を愛さなければ何の意味もないかのように、主は「あなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。(申命記10:12,13)」と言われるのです。
それも、私が「さいわいを得る」ために、なのです。
どうして、そんな主を愛さずにおれましょう。
ただ一方的にこれほど愛してくださった方に答えずにおられましょう。

【申命記10:16】
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私のすべては、そしてこの命は主のものです。
私は永遠に主よ、あなたを愛します。
2015/03/27(金) 13:27 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【黙示録3:20】
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

この御言葉は驚くべき事に、神を信じない者にではなく、クリスチャンである、七つの教会の一つに語られています。
「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。(ヨハネ14:23)」と言われる主イエスが、私達の内に住まうのではなく、「戸の外に立って、たたいている(黙示録3:20)」のだとしたらどのような状況だというのでしょうか。
私達は救われた時、救い主であるイエスキリストを信じ、受け入れたはずです。つまり、私達の内に主をお迎えし、主は私達の内に住んでくださっている。また同時に教会の内にご臨在される方のはずです。
その方が戸の外に立つと言うことは、すでに主イエスが私達の内から、また教会の内から、外に出されてしまっているということです。
何と悲しむべき事でしょうか。
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(ピリピ2:21)」とある通り、私達の各々の事情は主イエスを私達の心の内から閉め出すのです。

【創世記3:6-11】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

このことは、アダムとエバがサタンの誘惑に会い、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われ(創世記3:6)」る実を食べたのと同様に、
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇(1ヨハネ2:16)」に惑わされて、「世と世にあるものとを、愛して(1ヨハネ2:15)」、主から身を隠し、父(神)の愛を退ける(ヨハネ2:15)ことであり、
アダムとエバがエデンの園に住まいながら、主を退けたために、自らをエデンの園から退けてしまったのと同じ過ちを繰り返すこととなるのです。

【ルカ14:16-24】
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

主が再び来られる終わりの時は、その反対に神への愛が冷め、各々自分の事に心を奪われ、神を閉め出し、せっかく招かれた婚宴にあずからないという、教会の本来の目的を完全に見失い、世の友となり、またサタンの友ともなり、神の敵となりさがった(ヤコブ4:4)教会の姿をここに見ることができます。
何と恐ろしく愚かなことでしょうか。
しかし、彼らは主が来られる直前まで世を謳歌し、「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っている(黙示録3:17)」者達となるでしょう。

【ルカ17:28-30】
17:28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。

しかし、主が来られる日はその婚宴に入れられる者には最も幸いの日となるとしても、それを退ける者には裁きの火の中で、主に退けられ絶望の内に投げ出される日(ルカ13:24-27)となることでしょう。
残念なことに、多くのそのようなクリスチャンは主が来られる日ははるか先の事のように認識(1ペテロ3:3,4)し、自分の生きている間にはそのようなことはないであろうと考えます。
しかし、私達は明日生きているのかどうかもわからない「消え行く霧にすぎない(ヤコブ4:14)」存在です。
もし、明日にでも私達が死を迎え地上を離れるようなことがあれば、主イエスに再びお会いするのは明日ということになるではありませんか。
携挙を明日来るかも知れぬと待ち望むことは、個人においては明日にでも主にお会いすることになるやも知れぬと、備えを今するように生きるということでもあります。
主への愛が冷め、主を退けることがいかに主が悲しむ事であり、また愚かで恐ろしいことであるのか、私達は認識を新たにし、目を覚ます必要があるのです。

【雅歌5:2-8】
5:2 わたしは眠っていたが、心はさめていた。聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者よ、あけてください。わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪の毛は夜露でぬれている」と言う。
5:3 わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。
5:4 わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。
5:5 わたしが起きて、わが愛する者のためにあけようとしたとき、わたしの手から没薬がしたたり、わたしの指から没薬の液が流れて、貫の木の取手の上に落ちた。
5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
5:7 町をまわり歩く夜回りらはわたしを見ると、撃って傷つけ、城壁を守る者らは、わたしの上着をはぎ取った。
5:8 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓って、お願いする。もしわが愛する者を見たなら、わたしが愛のために病みわずらっていると、彼に告げてください。

愛する主があなたの元にその溢れるほどの愛を持ってあなたを迎えに来られる時、あなたを呼び戸をたたく音がしても、この世で生きることに馴染んで、戸を開けることに躊躇し、この世への未練と、この世の教える常識の中に眠り続けることを望むならば、主は悲しみと共に去っていくことでしょう。
そこに残されるのは、あなたのために、十字架に自らの命をささげた主の死(没薬)の事実とそこに主がどれほどにあなたを愛したのか、注ぎ続けた主の愛のみであり、それを退けてしまった自らの愚かさへの言いようのない絶望感でしょう。
そして、残されたこの世では迫害の波の中、主を選んで殉教するか、主を捨てて背教し、永遠の滅びを選ぶかしか存在しない時代に生きることとなるのです。
だから、主はここに私達に対して警告し、主の再臨を退ける前に、主の愛に目覚めるよう勧めています。
主への愛のために病みわずらうほどに、主にお会いすることをこい慕い、この地で離れていようとも主を待ち望む。
あなたの愛は目覚めているでしょうか。
この地の生活に埋もれ、
主があなたに注いだ初めの愛から離れてはいませんか?

【黙示録2:4,5】
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

※今回の聖書の引用箇所です。ご一緒にご参照ください。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

【黙示録3:14-22】
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

【ヤコブ4:4】
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

【ルカ13:24-27】
13:24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
13:25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
13:26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
13:27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。

【1ペテロ3:3-10】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

【ヤコブ4:14】
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
2015/03/24(火) 07:59 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【箴言30:21-28】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

この地にあるこの世の国は、人の知恵と力により、治めようとするものであり、その全ては己の心から発するものを形とするもの、どれほど人が理想を求めても、そこに善は存在しません。
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。(エレミヤ17:9)」とある通り、人の心が偽りであるので、はなはだしく悪に染まった社会しか作り出すことができません。
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(箴言1:7)」「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。(箴言9:10)」からこそ、神を恐れないこの世は神の知恵がなく、愚かなことを繰り返すしかありません。
国を統治するのはその国の主権を持つ者ですが、最初に権力を持つニムロデの時代(創世記10:8-12)から、人は同じ構造を繰り返しています。
権力により支配をする構造。
それにより人は一つになろうとするため、自らの力と知恵で高い塔を作り、高みを望む者達が心一つにして、その支配の塔を作ろうとするのです。

【創世記11:3,4】
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

これこそがバベルの塔であり、このように人がひとつになって、神を離れ、自らの知恵と力により、神に逆らってこの地を治めようとする者達の集大成。
この高き塔こそ、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう(ルカ4:6,7)」というサタンの誘惑のささやきを聞く場所なのです。
主はこの人の力に「彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。(創世記11:6)」と語り、神ご自身が人に自らの似姿(創世記1:27)の内に与えた人の力を打ち砕くため、「彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」と心を一つにできなくし、力を分散させようとしました。
神に逆らって、自らの欲求の満足とそこに至る自己達成のために発揮する人の力は神が危惧するほどに、これほどに強いものなのです。
これがバビロンの起こりです。
そして、これがイスラエルを捕囚することとなる大帝国バビロンに繋がるものであり、やがて大淫婦と言われる「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母(黙示録17:5)」の姿、「大いなる都、不落の都、バビロン(黙示録18:10)」となるものなのです。
つまり人の世の歴史には、連綿とこの人の作り出した、人の知恵と力の支配の結晶であるバビロンが存在するのです。
そしてこのバビロンを神は忌み嫌われ、幾度もその歴史の中で打ち砕かれているのです。
さらに神は、その支配と権威の構造ごと、十字架により打ち砕き、全てを主イエスキリストの足の下に置かれました。

【エペソ】
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

【コロサイ】
2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

このように、人の世は支配と権力を奪い合い、こうしてこれまで多くの国々が歴史の中に生まれてきたのです。
神は初めから人の愚かさではなく、神ご自身の知恵によりこの地を治めることを望んでおられたのに。

【箴言8:5-17】
8:5 思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。
8:6 聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。
8:7 わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。
8:8 わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。
8:9 これはみな、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。
8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。
8:11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。
8:13 主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。
8:14 計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。
8:15 わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
8:16 わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

だから、今日の御言葉のごとく、罪の奴隷たる者が王となり、神の知恵を持たない愚かな者が自らの欲望を満足させるために生きる世を、神は耐えることができないと語り、地は震うと言うのです。

【箴言30:21-23】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。

そして、バビロンに属するもの大淫婦たるものが、「地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得(黙示録18:3)」て、「彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにし(黙示録18:7)」て、「心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言(黙示録18:7)」うことを忌み嫌うのです。

神はこのようなこの世の歴史に、明確な区切りをつけられることを語られました。
神の国がこの地の国々を打ち砕いて、全地を支配するという計画です。
それがダニエルが解き明かしたネブカデネザル王の夢の内容(ダニエル2:31-45)です。
歴史を動かす大きな中心的国家、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、そしてローマの影響を大きく残した現代。
その全ての国々の支配を超えて神の国は全地を統べ治め、やがてこれらの国々を打ち破って完全なる神の永遠の統治がこの地に到来することを預言したのがこの夢でした。

【ダニエル2:44】
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。

つまりこれこそが神の壮大な歴史における神の計画であり、私達はこの神の国に国籍を持ち、この地にこの計画を成就するために遣わされた者達なのです。
ですから、私達がこの地に染まり、この世の支配にひざをかがめ、大淫婦の仲間として、生きることはサタンに属し神の選びから自ら出て滅びに向かうことであり、愚かな生き方なのです。
私達はそのようなことをする必要は全くなく、救われた時から、キリストと共にこの地を統べ治める者として、始めからキリストの花嫁とされているのです。
大バビロンという都ではなく、私達こそ神の住まう神の国の永遠の都、新エルサレムなのです。
だからこそ、私達はそれにふさわしい賢い歩みをこの地上でもすべきなのです。
それが今日の御言葉の後半部分です。

【箴言30:24-28】
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

私達にこの地上では力はなくとも、神の国の到来を望んで今からそれに備え(25節)、決して揺るぐことのない信仰の岩(マタイ16:18)の上、御言葉の岩(ルカ6:48)の上、キリストの土台(1コリント3:11)の上に家を建てる(26節)。
王なるキリストはこの地上にはおられず天に居られるけれども、 私達はキリストの体、教会として一つとなってこの地上で生き、またこの世に出て行き(27節)、地には居るけれど、その霊において、常に王なるキリストの御前、天の御座のある王の宮殿に永遠に住まう。
そのような生き方を主は小さいけれども、非常に賢いものの生き方として語られているのです。

愛する兄弟姉妹。私達も世に惑わされてすでに得ている神の祝福を失うことなく、たゆむことなく、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めて(ピリピ3:13,14)」いこうではありませんか。

※今日の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記10:8-12】
10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。
10:10 彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。
10:11 彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、
10:12 およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。

【マタイ16:15-18】
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

【ルカ6:47,48】
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。

【1コリント3:11】
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。

【ダニエル】
2:31 王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。
2:32 その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、
2:33 すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。
2:34 あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
2:35 こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
2:36 これがその夢です。今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。
2:37 王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、
2:38 また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。
2:40 第四の国は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
2:41 あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。
2:42 その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。
2:45 一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。大いなる神がこの後に起るべきことを、王に知らされたのです。その夢はまことであって、この解き明かしは確かです」。
2015/03/19(木) 14:37 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏
してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

人の生来の性質は偶像を求めます。
まさしくこの偶像というものは非常にやっかいなもので、主がモーセに授けた十戒と言われる律法の中の一つが今日の御言葉になるのですが、この御言葉を与えられ、律法を守ることをイスラエルは誓ったすぐ後に、彼らは金の子牛という偶像を作り、神ならぬ神に祭壇を作り、供え物をささげ、崇めてしまうのです。
彼らはこの偶像に「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である(出エジプト32:4)」とさえ言っています。
しかし彼らは明確に「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです(出エジプト32:1)」と、天地万物を創造された、人の手によって造ることなど到底できようはずのない栄光の神を、自らのために造れと、ありえない冒涜を犯し、「 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたので(ローマ1:23)」す。
私達に造れる神に一体何の意味が有るのでしょうか。
「10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(1コリント10:19,20)」とあるように、自らの手で造った神という名のいかなる偶像も、それは何の意味もないものであり、それを崇めることは悪霊どもにひざをかがめ、悪霊の仲間となる、サタンを崇め、サタンと契約を結ぶ行為に他なりません。何と恐ろしいことでしょうか。
しかし、人はその結果がどれほど恐ろしいものであるのかを知らずに、この恐ろしい行為を当たり前に犯してしまうのです。
サタンの仲間となった者の行く末は、神に敵対する者であり、その結果は当然永遠の滅びなのです。それは神に選ばれた民であっても同様。
神ならぬ神に仕え、神に敵対する者となる以上、その定めから逃れうることはできません。

偶像が作り出されるのは、人間が自らの欲望をかなえる都合のいい神を造り上げようというところから発生するものであることが、このイスラエルの反逆からよくわかると思います。
ですから、いかなる人の貪欲も、「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」のです。
この世と言われる場所はこの貪欲が生み出す偶像礼拝に満ちた場所です。
それは神を退け、自らの欲望を満たすことを何の躊躇もすることなく、むしろ自分のために、自分の力で生きる者を賞賛さえされる場所であるからです。
この数限りない偶像に、世(サタン)は巧妙にクリスチャンのひざをかがめさせようとします。
それはサタンの甘い誘惑を伴うものですが、私達はここに明確な決別を宣言しなければなりません。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

主イエスがこの世に公に姿を現され宣教の働きを始められるとき、サタンはこのように主イエスを誘惑しましたが、私達も主イエスに遣わされている世というものに一歩でも足を踏み入れるのであれば、主イエスの答えられたサタンに対する宣言を常にその内側に携えていなければなりません。
でないなら、人は容易にその誘惑に惹かれ偶像の元に姦淫を行い、サタンとの契約を結び、二度と戻ることのない永遠の滅びに落とされてしまうからです。

【民数記25:1-3,9】
25:1 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
25:2 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。
 [中略]
25:9 しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。

このような世の戦いにどれほど多くの兄弟姉妹が飲み込まれ、本来与えられている命を失っていることでしょうか。
クリスチャン自らが自分の貪欲を制することができず、自ら作り出した偶像(自らの都合のいい恵みを与えてくれる都合のいい神やそこに導く数々の教え)に捕らえられる状況ですから、そこに聖別無くして、どうして世に立ち向かうことなどできるでしょうか。
しかし、時代は刻一刻と反キリストを迎える準備を整え、この反キリストにひざをかがめよと社会が要求するときが近づいているのです。
時代は信仰を失うか、信仰を守るため命をささげるかを問うほどに厳しさを増していく、それがこれから私達が向かおうとしている未来の姿です。
ですから、今ここに主にある信仰をしっかり持つ必要があるのです。

【ダニエル3:14-18】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

私達は今生きている社会においてでさえ、信仰に於いて妥協を要求されることがあるでしょう。
しかし、今社会常識という言葉や、生活のため、立場のためと、神に背く一抹の罪を責められる気持ちを持ちながらも理由をつけ、巧妙な言い訳を通して、信仰を譲る者は反キリストの登場を待たずして、日々サタンに近づき、かけがえのない永遠の命を明け渡し続ける者となるのです。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日あなたはどのような面持ちで社会(世)に出て行かれるでしょうか?
しかし、一歩そこを出るとき、あなたは神を選ぶか、自分を選ぶかという選択肢の中に足を踏み入れます。
そしてその選択はあなたを滅びに導く偶像の元に引き出すか、栄光の神の絶大なる祝福の元に導くかを明確に分ける選択肢です。

そのとき私達は、信頼する主に私達の全てをゆだねつつも、私達のいのちを主にささげて、世に、サタンに宣言する必要があります。
「3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:17,18)」
2015/03/18(水) 20:25 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
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