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人の知恵と神の知恵
【1コリント 1:19-21】
すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」 と書いてある。
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
人はいつまで経っても自らの知恵を誇ります。
多くのクリスチャンでさえ、自らの救いと信仰の歩みが勤勉さとその上に重ねられた知恵によるかのように、人の知恵に依存しています。自らの愚かさを知り、神のあわれみに依り頼む(依存する)人は本当に少ないようです。
わかりやすく言うのであれば、宣教の方法や語られる内容、また信仰告白に至るまでの有効な学びなど、あらゆる人の作り出した知恵により、救いに到達されるかのような錯覚と、そこを原点とするからこそ、信仰を自らの勤勉さ、努力、意志により、打ち立てて行くものと勘違いしていく。信仰者として学び、それを実行する意志と行動を重ねる毎日の上に、はじめて信仰は守られ、信仰のある種の到達に至ると誤解している人が多いようです。
しかし、神はこの人の知恵を「神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。」とあるように信仰の最初の段階からその全段階、全域に渡るまで無意味なものとされました。
人の知恵はイエスが神の子であることを知るに至らせず、イエスが神の子キリストであることを告白したことを元に主イエスを十字架にかけました。
十字架は人の知恵をも打ち砕いたのです。
神の知恵はこの十字架に出会い、その十字架に自らを捧げた救い主イエスとその深い愛にあって交わり、主を知ることにより、与えられるものです。つまりは主がご自分の命をもって私達に与えられた、私達の内に住まわれる神、聖霊によって初めて知ることができる、受け取ることができるものとされたのです。
この内なるキリストに全ての知恵と知識があるのです。この霊、キリストの命が私の内に生きていないのであれば、全ては何の意味も力も持たない、役に立たない塵土のような知恵、知識なのであり、人を誇らせ死に至らせることはあっても、命に至ることのないものなのです。
そして、効率的な方法ではなく、愚かと思われる、宣教という、直接人と触れ合うことによって、信じる者を救うこととしたのです。
つまり、クリスチャンの内に住まうキリストの命を、直接分かち合い、そのことによって、まだ主を知らぬ人がこの十字架の主に出会うという、宣教の愚かさを、救いへの近道としたのです。
現在は出版物やあらゆるメディア、メールやインターネット、SNSなど、あらゆる方法を通して、いかに効率的に大量に宣教がなされていると錯覚する人はたくさんいるでしょう。
でも、間違わないで下さい。それらはキリストの命を伝えるのに何の力もありません。そのようなことがいくらできても、誰も救いには至らないのです。
むしろ、あなたが、十字架にかかられるほどのキリストの愛を、その内なる命にあって携えて、大切に目の前の一人一人に福音を伝えていくこと。あなたの主があなたにどれほど善くして下さったのか、どのように命をあなたに与えて下さったのかを語ることが、どれほどの力を持つかを知って下さい。
あなたの証には悪魔を引きずり落とし、キリストの勝利の内に、人々を永遠の滅びから永遠の命に導く、絶大な力があるのです。
だから、日々この絶大なる神の知恵を、主と愛をもって交わる生活の中で、豊かに受け取って下さい。そして、その素晴らしさを分かち合いましょう。そこに命が溢れるのですから。
2014/10/30(木)
12:42
今日の聖書
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命を与える十字架の言
【1コリント 1:18-25】
18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」 と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
深遠なる神の知恵について、何回かに渡り1コリント1:18-25から、分かち合いたいと思います。
今日は18節から
【1コリント1:18】
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
人は十字架を前にした時、二つの行動しか取ることができません。
それは神を選び神に従うか、神を退け逆らうか。その行き着く先は永遠の命と滅び、命か死か、祝福かのろいか。
そこには、私達がよく知る聖書の中の十字架の光景と全く変わらず、中庸という選択肢は存在しないのです。
私達が語り出す言葉も同様に、そこに十字架が本当に現される時、それを耳にする人達の反応はやはりこの二通りしか存在しません。
ある人は神を受け入れるからこそ、私達を受け入れ、あるいはある人達は神に逆らうからこそ、私達を迫害するのです。それは時に相手がクリスチャンであったとしても同様です。
ですから、私達自身が人から受け入れられるために、十字架の言を曲げることは意味がありません。
そうするのであれば、その時こそ私達自身が神を恥とする者、神に背を向ける者、逆らう者となっているのです。
まず、この十字架の言を自分自身に語りましょう。そのことにより、自らがどの位置に立っているか知ることができるでしょう。神に逆らう思いがあるのであれば、今一度十字架の前に悔い改め、主イエスの愛を受け取りましょう。
もしも、神を受け入れているのであれば、自らに語った十字架の言は神の力となって、あなた自身に力強く働くでしょう。
今日もあなたが十字架の言を持って、生きるにも死ぬにも全てにおいて主イエスキリストを証する一日を歩めますように。
2014/10/29(水)
13:45
今日の聖書
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福音を恥とはしない
【ローマ人への手紙 1:16】
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギ リシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
主は私のために十字架にかかり、私の罪のため、罪を知らない方であるのに罪となられ、死を身に負い、私の贖いの生け贄となってくださいました。そして、死に打ち勝たれ、よみがえり、私を共によみがえらせて、ご自身は命として我が内に住まわれているのです。
そうです。この主イエスの十字架は私のものです。
そうです。この方に私は命を与えられたのです。
この地で渇き切り、罪で汚れ、どうしようもないかけ違いをし、死にしか向かうことのない私の古い命を、主はご自身と共に十字架につけ、新しい命を、永遠の命を私に下さったのです。
この方は今も私の内に生きておられます。絶えることのない愛を注ぎ続けて、私を生かして下さっています。
そうです。私はこの方の愛を恥とはしません。
そうです。だから、私はこの命を得させる福音を恥とはしません。
この方を愛することの他に価値のあることは存在しないのですから。この命はもはや私のためのものではなく、私を愛して下さって自分の命を与えて下さった主のものです。
やがて、この方が再びこの地に来られる時、この方は裁き主として地に来られます。
彼に立ち返ることなく彼に逆らい続け、彼の愛を受け入れなかった人々を、裁くために。彼の愛を受け入れない者は彼に必ず逆らう者となる。永遠に神に逆らう存在となった者を裁くために。
この方の足が愛する彼らを踏み、その衣を血に染め、断腸の悲しみの内に裁きをなされるのです。
この主の御怒りの裁きから、この方が愛する者が一人でも多く救われるために、私達は福音を与えられているのです。
この方が少しでも悲しまないために。
あなたが主からどのようにして命を与えられたのか。主があなたにどのように善くして下さったのか。語って下さい。それが誰かに救いを得させる力となる、あなたに与えられている福音なのです。
2014/10/24(金)
22:06
今日の聖書
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主の問いかけに答える
【イザヤ書 6:8】
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
アダムとエバの時代、人が最初に罪を犯した時代から、神は私達(人)に「あなたはどこにいるのか?(創世記3:9)」と呼びかけ、私達を探し続けておられます。
主から自らを隠し、背を向け、神の思いを無視して、自らの思い(欲求)のために生きる。そんな私達に主はこのように語りかけておられます。そして、ご自身のこの思いを共に担う者を探しておられるのです。
神が今も罪にさ迷える魂(人々)を、ご自身の元に導くために、自らの思い(欲求、肉)を退け、神のために生き、神のこの問いかけ(福音)を携えて、出て行く者達を求めておられるのです。
この地が罪に満ちれば満ちるほど、神は滅び行く人々に切実に語りかけようと、罪人達の破れ口に立つ者を探しておられます。
だから、主を愛する兄弟姉妹。
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」という主のこの真剣な問いかけに、今手を止め、足を止めて、自分がどう答えるべきか、考えて欲しいのです。
なぜなら、この地がこの国が、主の忍耐を越えて裁かれるほどに、いつ罪を重ねてしまっているのか、つまり、いつまで主がご忍耐続けてくださるのか私達にはわからないのですから。
自らの平和を誇る前に、主の痛みを見つめて欲しいのです。
今日も共に「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」と告白を重ねましょう。
2014/10/23(木)
23:56
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上よりの力を受ける
【使徒の働き 1:8】
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
神が私達に与える、担うべき神の計画はあまりに大き過ぎて、私達にはとても信じられないものばかり、とても負い切れないものばかりです。
それは聖書において、一個人に語られた主の計画の壮大さから見ても、とてもよくわかることでしょう。そして、その真理は今も昔も、聖書の時代も現代も、変わることは何一つありません。
この壮大な計画を人間の力でどうにかしようとするのであれば、とてつもない過ちを犯すこととなるでしょう。
神の力でしか実現することのできないことだからこそ、それが成就したとき神だけの栄光となるのですから。
主はこのように、主に自らの人生を捧げ、主に生涯仕えることを選んだ者達に、ご自身の大いなるご計画を担わせて下さいます。
それは、国を建て上げること、歴史を作ること、時代を作ること、世界を支えること。
大それたことを聞いているように感じますか?
しかしこのように神の計画は、主が再びこの地に臨まれ、この地を治める日が一日も早められるよう、私達教会を通じて、クリスチャンを通じて、押し進められていくのです。
そしてこれまでも、そのようにしてごく普通の人々が、世界を神の元に勝ち取って来た(世界宣教)のです。
もしもあなたが主から担わされているこの壮大な計画が、あまりに大きく感じられるのであれば、今日の聖句をそのまま自分のものとして受け取りましょう。この聖句は聖霊によるバプテスマを表す聖句です。
主イエスはご自身の名にあるように聖霊によりバプテスマを与えられる方です。
この「力を受ける」と言われる「力」は絶大な力を指します。無限の神が私達の内から爆発的に現れる力なのです。
聖書に語られた御言葉をそのまま信じる者、それが主イエス(ロゴス=神の御言葉であられる方)をそのまま信じる者です。そして、その現れを事実として著されているのが聖書の使徒行伝(使徒の働き)なのです。それは驚くべき姿ですが、それが変わることのない主の真実なのです。
疑うことなくこの聖句の約束を、欲しいと主に願い、そのまま受け取りましょう。
2014/10/23(木)
02:19
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御言葉に親しむ
【詩篇119:14-16】
わたしは、もろもろのたからを喜ぶように、あなたのあかしの道を喜びます。
わたしは、あなたのさとしを思い、あなたの道に目をとめます。
わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れません。
主の御言葉に親しむこと、これは命の言葉であるイエスキリストご自身を知り、交わることです。
多くの兄弟姉妹が御言葉を理解しようと学び、あるいは調べ、研究します。
そのことを否定はしません。
しかし、御言葉を知るには大原則があります。
聖書こそ神の御言葉であり、生ける御言葉(ロゴス)であられるキリストが文字として現されたものです。だからこの御言葉は私達の内に生きる聖霊によらなければ、何一つわからないということです。
つまりただ読解するように聖書を読んだとしても、そこでわかるのはただの律法としての規律であったり、道徳的な規範であったり、あるいは歴史書籍であったり、礼典のための参考書であったりするでしょう。
つまりは教会運営や信仰生活の手引書となることはあっても、それ以上のものにはなりません。
しかし、この御言葉は主イエスキリストであり、生きているのです。
【ヨハネ1:1-4,14】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
[中略]
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
主イエスはこの地で涙を流され、憤り、また真理を語り、多くの人々と食事をし、交わり、父なる神に祈り、父に仕え、従い、十字架の道へと進まれました。
そこには知性も感情も意志もある。まさに人(「人の子」)であり、神(「神の御子」)でした。
つまり、主イエスはちゃんと、生きてパーソナリティー(「位格」)があり、私達はだからこそ、人と人が交わるように、主イエスと交わることができるのです。
この方は今も生きて私達の内に聖霊として住まわれ、また聖書を通して私達に語りかけられます。まさに今私達は生きておられる主と交わることがゆるされているのです。
これは驚くべきことです。
そこには愛が溢れ、命に満ち、生きて触れ交わるように主を知り、主ご自身の御心の奥深くを教えてくださる。そして主に愛をもって従うように、御言葉を喜び、御言葉を忘れず、御言葉に従い生きていく。主と私だけの、他の人では代わりになることのできない、深い交わりがそこに存在するのです。
もしそのように、つまりは主と愛にある深い交わりを持つように、御言葉を読み触れるのであれば、聖書は今までとは全く異なった命の光を放つでしょう。
今日も主イエスを愛し、御言葉と共に歩んでまいりましょう。
2014/10/22(水)
16:39
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