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ただ主のみを恐れよ
【詩篇103:13-19】
父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。
人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。
風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
心弱まるとき、自らには何もなく、力も、良い知恵も、頼れる人も、頼れる物も一切なく。ただ心許なく、神様すら遠くに思え、どうしたらよいのか途方に暮れるとき。
まさしく、聖書にある通り、私は何者でもなく、塵(ちり)に過ぎない者。それ以上でもそれ以下でもない。
そう感じるときが誰にでもあるでしょう。
しかしここで、主は私達が塵に過ぎないことを知っていると言われています。
主を我が主とし、神を我が神とし、王なる方を王とする者、主を恐れる者に、主は「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(黙示録21:7)」と語られます。
それが神に造られた者、そして主イエスの贖いにより神との和解を受け、神との本来の関係に戻された者のあるべき姿です。私達はここに平安を得ます。
この王なる神がご自身の玉座に着かれるなら、神が全てを統べ治め、とこしえに変わらない主の公義といつくしみが溢れ、万物は主の御言葉に従って行くのです。
現実が如何なる状況に見えたとしても、この現実が御言葉に従っていくのです。
【ヘブル11:3】
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
この御言葉こそ、神の子とされた者には愛そのもの。そして命そのもの。主イエスそのもの。
神の子はこの御言葉の中に留まり生きるのです。
そうです。神はあなたの父のように、あなたを愛し、あなたに何もないことを十分に知っていると語りかけられ、だから主により頼み、主に従い、主を愛し、主を恐れ生きる者のために、主は万物を動かしてあわれむと言われるのです。
このとき、私達に何もないということは何の意味もなくなります。なぜなら、天地万物全てを統べ治める方が、あなたの全てとなるというのです。あなたには全てのものが主にあって与えられているというのです。
これがどれほど凄いことかわかるでしょうか。
あなたには何もなくとも、全てが満ち溢れ、問題は何一つ問題ではなくなり、全てが主の栄光となっているのです。
鍵はあなたが神を恐れ、あなたの王として玉座に迎え、主の御言葉のうちに留まることです。全てはあなたの何ものにもよらないのです。
全ての恐れを捨て、神を恐れましょう。
2014/11/21(金)
12:32
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砕かれた岩
【出エジプト17:1-7】
17:1 イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。
17:3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
17:4 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
17:5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
17:7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。
ここに目の前にある岩に三つの意味を見いだします。
一つは私達の歩みに、問題として立ちはだかる大きな岩です。
ここは水がない沙漠の地であり、周りにあるのは岩。水が全く期待できるような場所ではありません。人がその現実を目にし、自らの考えにおいてどうにもならない状況であることを判断した時、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか(7節)」と、神への小さな疑いが神への不信という罪へと人を導き、神を試みます。
つまりここにもう一つの岩が登場する。それは私達の心の、神に対する頑なさです。
心が岩のように硬化してしまうなら、もう人は信仰を働かせることはできません。
「なぜこわがるのか、信仰の薄い(信仰を働かせられない)者たちよ(マタイ8:26)」
問題は死の恐怖と共にさらに大きく見えてくる。この大岩を前にもう人はどうにもできません。惨めに勝手に絶望の内に神をさえのろう。その姿がこのイスラエルの人々に現されている私達の姿です。
「あなたは岩を打ちなさい。(6節)」
神はここに全く別の一つの岩を提示します。それは私達の救い主の姿です。
【1コリント10:1-4】
10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、
10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
私達の主イエスキリストこそ、私達のために十字架にかかられ、砕かれた岩である方です。この方の死により私達はあらゆる状況の中によみがえりを見出すことができるのです。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
いつでも、私達のために十字架の上に砕かれたイエスの姿を見るならば、私達はいかなる問題の前においても、永遠に尽きることのない命の水にあずかることができるのです。
そして、同時に私達の神への頑なな罪という岩は、この贖いの御業により砕かれます。
主イエスの十字架にすがる。
鍵になるのは「初めの愛(黙示録2:4)」です。
信仰年数が長くなり、信仰経験が多くなるほど、この「初めの愛」から遠ざかる傾向があります。成長したクリスチャンはスタートから遠ざかったところにいるのではありません。
あなたは今、目の前の問題に心奪われ、神が見えなくなり、十字架の愛を忘れていないでしょうか。
私達はこの初めの愛から離れたら何もできません。私達の神への頑なさ。何度も神を試みる神への不信。十字架の他に神に帰る道はありません。
もう一度十字架に立ち返りましょう。悔い改めは恵みです。神の愛です。
この十字架の元から死はよみがえりに変えられるのです。
すべての鍵は最初から十字架の元に与えられているのです。
2014/11/18(火)
17:44
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よみがえりの主がおらる
【ルカ7:11-17】
そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。
町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。
主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。
すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。
人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。
イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。
これはナインという町で主イエスがなされたよみがえりの奇跡です。
しかしこの奇跡の御業のきっかけが、一人息子を亡くした母をあわれまれてというところに私達は深い慰めを受けます。
そして、そこで現された御業はひとりの若者をよみがえらせたばかりか、恐らくその母を含め、この御業を見た多くの者達をやがて神の前によみがえらせることとなったことでしょう。
なぜなら、この当時ユダヤの人々は、死んだ後人がよみがえることについて、信じる人と信じない人に分かれていましたが(参照 使徒23:6-10)、ここに主はよみがえりの御業を現されることにより、その論争に決定的な結論を証したからです。
もしも、よみがえりがないなら、人は死後よみに下り、そこに永遠に閉じこめられるだけで何の希望もありません。この地にいることのみが希望であり、死後にはひとかけらも希望がないことになります。
しかし、もしも死後よみがえりがあるのであれば、神(主イエス)を信じる者は永遠のいのちを持つことになるのです。
【コロサイ1;18】
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
【ヨハネ11:25,26】
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」
そして、そのことは死後よみがえって、キリストと共に永遠に住まう、完成された神の国(天国)にある永遠の希望が与えられることとなるのです。(1コリント15:12-28)
何と驚くべきことでしょうか。このような奇跡をただ通りすがった名もない者のために、主はなされたのです。いや、主の内には実は明確な動機が存在しました。主は「深い同情を寄せられ(13節)」たのです。決して通りすがっただけではなく、主は愛してくださっていたのです。
神は私達の頭の毛の数さえご存知であり(ルカ12:7)、私達が生まれる前この世の日が一日もない時から私達を知り、愛してくださっているのです(詩篇139:13-17)。
そして、私達によみがえりの命を与え、永遠の命にあずかる絶大なる希望を与えたいと切望されたのです。だから、主イエスを救い主と信じる私達にこのことを与えてくださったのです。
あなたは主イエスのよみがえりを信じていますか?
あなた自身のよみがえりを本当に信じていますか?
あなたに与えられているこの永遠の命という絶大な希望を信じていますか?
主は今もあなたのそばにいて、この希望をあなたに本当の意味で与えたいと願い、深く愛しておられます。
あなたを愛するがゆえにその命を十字架にささげ、またよみがえってあなたにご自身のよみがえりの命を与えるほどに。
よみがえりの主に、命の主に、その御手に、永遠の愛にすがりましょう。
2014/11/14(金)
19:27
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自らのはかり
【ルカ6:37,38】
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
神の国の基準はこの地においては非常に不思議です。つまりこの世の常識とは反しているということです。
およそ、神の国の常識をもってこの世に歩むのであれば非常識で愚かな人と言われるでしょう。
なぜなら、この世の常識はこの世の君サタンの支配にある考えであり、最初から神に反するための考えだからです。そのサタンに欺かれ人が罪を犯したからこそこの地はのろわれ、常に不条理に占拠されています。その不条理にあって必要悪というサタンの偽りの考えを受け入れなければ、生きていけないと人は思い込まされしまうのです。それがこの世の常識です。
しかし、神の国における法則、真理はこれを真っ向から否定します。そして神の性質の溢れる神の国をこの地上に顕現するために、神の御言葉を預けられた者達がいかにこの地上で歩むべきかをはっきりと指し示します。
それは中庸という、どっちつかずの選択をゆるさず、世に生きるか、神にあって生きるかを明確に選択することを迫るのです。
測りなわは神にあります。人はそれを持っていないからこそ、神の測りなわでなければ善悪をはかることはできません。なぜなら善とは神のみにある性質であり、この神にないものの性質が全て悪だからです。
しかし善悪を知る木から実を食べてしまった人間には自らが神のようになろうとするため自らを善とし、善も悪も自らの基準をもってはかろうとするのです。
そしてそのはかりは他人をはかるとき、自らをもそれによってはかるのです。
自らが裁かれる定めにあるサタンが人間同士に植えた罪にあるジレンマがここに存在します。罪ある者が自らを正しいとして互いを裁きに定め、共に滅びに定めようとする。これこそサタンにあるこの世の常識です。
これに明確に逆らう神の国の法則は十字架にあるゆるしです。互いにこの十字架にあってゆるし合うなら、神の国はこの十字架の下に確かに現われるのです。
また、神の国は神の豊かさを分かち合いそれによって豊かさがさらに満ち溢れるという性質を持っています。それはイエスがこの地上で行われた五千人の給食を見れば一目瞭然でしょう。主が祝福されたわずか五つのパンと二匹の魚が、分かち合われて豊かになり、そこにいた五千人以上の人々を満たすという奇跡に至った。これこそが神の国の性質です。
なぜなら、私達は豊かさに満ちみちておられるイエスご自身の豊かさを分かち合うことで満ち溢れる。これが神の豊かさだからです。
そして私達はこの豊かさを分かち合うために弟子達が五千人の給食の際行ったように自らの手で自らに与えられたものを配る必要があるのです。これが神の国を与えられたに者達に神から授けられた役目です。
私達の持ちゆる物は全て神から与えられたものです。その豊かさは私個人を豊かにするためのものではなく、その豊かさをパンと魚を配るように、互いに与えて初めて豊かさが増し加わるのです。この豊かさを分かち合うのが教会です。
キリストの満ちみちた豊かさが満ち溢れており、それをキリストが自ら血と肉を分かち、ご自身の豊かさを分かち合うために、自らのからだとして教会を建てたのです。
【エペソ1:23】
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
【エペソ3:17-19】
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
これが神の性質に満ち溢れた神の国の現れです。
私達は自らのはかりを神の国の法則、真理の内に持つのか、世の常識に持つのか。思っている以上に真剣にこのことに向き合う必要があります。
なぜなら、そのことが私達の信仰者としての歩みを自らのはかりではかることとなるのですから。
2014/11/13(木)
17:15
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目を離せない真実
【ヨハネ1:29】
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
全ての人の生涯はこの方を知るために存在します。この神の小羊を見るために。
それはイエスキリストを知らず、また信じるに至らない人々においてもそうですが、私達イエスを信じる者達においてもなおさらそうです。
私達のためにほふられた神の小羊たる主イエスキリスト、ここから生涯目を離さないために私達は生きているのです。
全ての生きとし生けるもの、息のある全ての物はこの方に注目しています。
なぜなら、この方にあって全てのものが完成する、全ての終局、結論はこの方にあるのです。
いやすでにその結論は十字架の上で完成したのです。
神の全ての計画は既に十字架の上で価払われた贖いの御業により、完成したのです。
神の子の血のあまりの価高さは、新しい契約、新しい天と新しい地が完成するための全ての代価を払い切ったのです。そして今やその完成した約束を受け取る時を、待ち望むのみにより確実に私達に与えられるのです。
だから、このアルファでありオメガである方、始めであり終わりである方に、全てのものは注目し、その目を離さないのです。
【黙示録5:9-14】
彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
永遠の天の礼拝の中心で、「ほふられた小羊」にその目は集中し、その大いなる御業の故に、この方に全ての者達の賛美は集中します。
あなたはこの大いなる意味を本当に知っているでしょうか?
いや私達はこの大いなる意味を知るために生きているのです。
ですから、私達の生涯はイエスキリストの十字架のあまりに大きな愛と、その大いなる意味を、生涯を通して知るためにあるのです。
私達の罪が如何に深く、また弱く小さく悩み、あるいは病み、あるいは傷つき、悲しみ、人生にはいろいろな場面があるでしょう。
しかし、私達はそのたびに主イエスの十字架を見上げるとき、その全てを十字架に背負い死につけられた方の姿を見て、全ての重荷は取り去られ、彼のよみがえりを見て、私達は全てのことに勝利をするのです。
私達の生涯に十字架の死とよみがえりが繰り返し現れ、それを私達が繰り返し体験する中で、私達は永遠に渡って世界の中心である、重要なこのことを見つめ、知り続けるのです。
ほふられた小羊という、驚くべき神の御業を。
【ヘブル12:2】
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
だからこの方から永遠に目を離すことなく、愛する兄弟姉妹、共にこの価値ある道を歩んでいこうではありませんか。
2014/11/04(火)
02:57
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日々新しくされる
【1コリント 1:22-24】
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
多くのクリスチャンがわかりやすい形での信仰の刷新を求めます。
信仰者として、何かに飢え渇き、求めている。そのことは悪いことではありません。むしろその飢え渇きがなければ、神から離れた命の通わない信仰生活を歩むことになるでしょう。
しかし、これを何によって得ようとするかによって、得るものは大きく異なります。
ある人はそれを、癒しや奇跡、不思議な業などに求め、それがなければ、信仰が今一つ生まれ変わらない、それさえ見れば、体験すれば、何かが変わるのではないかと考える。
神の神秘的体験、それを見ることが、神をさらに信じるためのしるしとなるのでしょうか。
またある人は、聖書を学び、信仰、神学を学ぶことによって、それを得ようとする。
それがどこまで積み上げればよいのかわからないけれど、いずれ学びを重ねた先に主を深く知ることができると考える。
また新しい真理、まだ解き明かされていない、あるいはあまり語られていない真理を得ることによって信仰が、目が開けたかのように刷新する。そう考える人もあるでしょう。
けれども、今御言葉は何と語っているでしょうか?
キリストの十字架の前には、あるいはつまずきとなるか、またこのことが愚かなことのように感じるか。それとも神の力、知恵たるキリストを見るのかしか、私達には結論がありません。
十字架は語り尽くされ、真新しさのない、ただの信仰の出発点でしょうか。
十字架を卒業し、新しい何かによらなければ、信仰は新たに生まれないものでしょうか。
十字架と真っ直ぐ向き合うことを心のどこかで避けていないでしょうか。
これはイエスを信じる者も、まだ信じていない者も、いずれも同様のことです。
人は神と真っ直ぐに向き合い、主に近づこうとするとき、人はむしろ自らのうちに神を避けたい、自分の都合のいい距離で神と向き合いたいという、神に背を向ける人の本質、「肉」というものに突き当たり、そして自らの力ではどうしても拭えない罪の源泉(原罪)を見るのです。
同時に、人はそこに神に裁かれるしかない存在である自らの姿を見る。
そこに立ち、十字架を選ぶか、退けるか。そこにはいついかなる時も厳粛な、神の救いと裁きしか存在しません。
十字架を選ぶ者には主の完成した救いの永遠の計画が与えられます。
全てのことは、全世界は、十字架を中心に、神の永遠の計画の中で、完了しています。十字架の御業が完成したとき、主の永遠の計画は完成したのです。
だからこそ十字架には、神の力、知恵、その全てがあり、その十字架の上にキリストが存在しているのです。
私達はこのキリストを、この十字架を私のものとして受け入れたときからつまり始めの愛を知ったときから、受け取っているのです。
このキリストは私達の新しい命として、私達の内に生きているのです。
ここに神の完全なる力と知恵が存在するのです。
この十字架の死と復活を日常の中に繰り返す営みの中に、日々私達は新しくされ続け、たとえ外見が衰えても、その内は新しい命で満ち溢れて行くのです。いや、この新しさを知れば知るほど、人は永遠という計り知れない基軸の上に、新しさを重ねていくのです。
今私達は始めの愛に立ち返りましょう。この十字架の他に完成された道は存在しないのです。キリストから目を逸らさず真っ直ぐに向き合いましょう。
そこにわき上がる新しい命が溢れるのです。
永遠の救いの恵みがあなたの内に溢れますように。
2014/11/01(土)
09:10
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