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【ヤコブ4:13-17】
4:13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
4:15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
4:16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
4:17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。
新しい年を迎えると、昨年の反省などを踏まえながら、今年こそと目標を掲げ、一年の計画を立てたり、また人によっては何カ年計画といった形で、先の日の計画を立てるという方もいるでしょう。
ここで聖書が、このような人の性質について前提として語られているのは、人の命は主により定められ、その生きる道も主により造られるということです。
つまり、自らの計画を立てる大きな背景には、人は自分の力で生きていると思っているということです。
自分の力に頼り、あるいは人々の協力、助けもあるかも知れませんが、いずれにしても自分達の力によって、計画を立て、成し遂げていく。
一見すると、兄弟姉妹や教会といった単位で見るのであれば、それは神の計画、神の栄光に見えるかも知れません。
しかし、それが全て自分達の力で成し遂げられるのであれば、そこに神が働く隙が存在していません。
気がつけば神無しで物事がどんどん進んで行っている。そのようなことはよくあることです。
もしもそのようなことに少しでも気づき、あるいは行われている全ての計画に神の喜びが満ちず、また教会に、自分の信仰生活に、閉塞感が漂うようになっているのであれば、一度立ち止まって神に祈るべき時ではないでしょうか。
もしかすると、そこには人の力が満ち、人の栄光はあるけれど、神の働く余地が全くなくなっているのかも知れません。
【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
神の栄光は私達の弱さや欠け、無知など、私達の無力さ、小ささに現されるものであることを忘れているのかも知れません。
水は高いところから低いところに流れるように、主の恵みは低いところに注がれます。(詩篇113篇、ルカ6:20-26、1コリント1:26-31)
私達は知らず知らずに神の前に高慢になっているのかも知れません。
勘違いをしてはいけません。
私達の計画のために神が居られるのではありません。神の計画のために私達は生きている(2コリント5:14,15)のです。
私達は神の御心のままに造られ、御心のままに生かされ、主により保たれている(コロサイ1:15-17、エペソ1:3-12)のです。
【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。
主のために生きようと願うものには主は私達に主の御心を明かされます。
主の大いなるご計画の一端を私達が担うために。
それは祈りの内に、あるいは聖書を通して、あるいはメッセージや人の言葉を通して、主の思いを知り、その思いを我が思いとして担い、主からの召しとして、それを受け取る。つまり主のご計画を私自身がどのように担うかということを知るでしょう。
それは人の思いをはるかに超え、自分の力では到底できないようなものでしょう。しかし、だからこそ神の計画、神があなたに何もないからこそ働かれる計画なのです。
【マタイ6:33,34】
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
ならば、そのような人にはわからないようなことを、できないようなことを成すために、どのようにして今日一日を過ごしたら良いでしょうかと問うでしょうか。
だからこそ、私達には明日のことがわからないのです。
主と共に歩くとはそれほど大きなことであり、今日一日のことをするので充分なほど、私達にはそれぐらいの能力しかなく、またそれほど大いなる一日を私達に主は与えて下さっているのです。
今日を精一杯、主に忠実に心からの愛と誠実を以て、主の御心を思い、願い、祈り、御心が成るように生きるだけで、充分大変なこと、それ以上の能力は私達には与えられていないのです。
どれほど小さなことに見えても、主の御心を思い忠実に生きる。
この一年も神の御心が成るように、まず今日一日を誠実に積み重ねる、大切な日々を歩んで下さい。
主の祝福を心よりお祈りしています。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【詩篇113篇】
113:1 主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主のみ名をほめたたえよ。
113:2 今より、とこしえに至るまで主のみ名はほむべきかな。
113:3 日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。
113:4 主はもろもろの国民の上に高くいらせられ、その栄光は天よりも高い。
113:5 われらの神、主にくらぶべき者はだれか。主は高き所に座し、
113:6 遠く天と地とを見おろされる。
113:7 主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、
113:8 もろもろの君たちと共にすわらせ、その民の君たちと共にすわらせられる。
113:9 また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ。
【ルカ6:20-26】
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
6:21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
【コロサイ1:15-18】
1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
【エペソ1:3-12】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
4:13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
4:15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
4:16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
4:17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。
新しい年を迎えると、昨年の反省などを踏まえながら、今年こそと目標を掲げ、一年の計画を立てたり、また人によっては何カ年計画といった形で、先の日の計画を立てるという方もいるでしょう。
ここで聖書が、このような人の性質について前提として語られているのは、人の命は主により定められ、その生きる道も主により造られるということです。
つまり、自らの計画を立てる大きな背景には、人は自分の力で生きていると思っているということです。
自分の力に頼り、あるいは人々の協力、助けもあるかも知れませんが、いずれにしても自分達の力によって、計画を立て、成し遂げていく。
一見すると、兄弟姉妹や教会といった単位で見るのであれば、それは神の計画、神の栄光に見えるかも知れません。
しかし、それが全て自分達の力で成し遂げられるのであれば、そこに神が働く隙が存在していません。
気がつけば神無しで物事がどんどん進んで行っている。そのようなことはよくあることです。
もしもそのようなことに少しでも気づき、あるいは行われている全ての計画に神の喜びが満ちず、また教会に、自分の信仰生活に、閉塞感が漂うようになっているのであれば、一度立ち止まって神に祈るべき時ではないでしょうか。
もしかすると、そこには人の力が満ち、人の栄光はあるけれど、神の働く余地が全くなくなっているのかも知れません。
【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
神の栄光は私達の弱さや欠け、無知など、私達の無力さ、小ささに現されるものであることを忘れているのかも知れません。
水は高いところから低いところに流れるように、主の恵みは低いところに注がれます。(詩篇113篇、ルカ6:20-26、1コリント1:26-31)
私達は知らず知らずに神の前に高慢になっているのかも知れません。
勘違いをしてはいけません。
私達の計画のために神が居られるのではありません。神の計画のために私達は生きている(2コリント5:14,15)のです。
私達は神の御心のままに造られ、御心のままに生かされ、主により保たれている(コロサイ1:15-17、エペソ1:3-12)のです。
【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。
主のために生きようと願うものには主は私達に主の御心を明かされます。
主の大いなるご計画の一端を私達が担うために。
それは祈りの内に、あるいは聖書を通して、あるいはメッセージや人の言葉を通して、主の思いを知り、その思いを我が思いとして担い、主からの召しとして、それを受け取る。つまり主のご計画を私自身がどのように担うかということを知るでしょう。
それは人の思いをはるかに超え、自分の力では到底できないようなものでしょう。しかし、だからこそ神の計画、神があなたに何もないからこそ働かれる計画なのです。
【マタイ6:33,34】
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
ならば、そのような人にはわからないようなことを、できないようなことを成すために、どのようにして今日一日を過ごしたら良いでしょうかと問うでしょうか。
だからこそ、私達には明日のことがわからないのです。
主と共に歩くとはそれほど大きなことであり、今日一日のことをするので充分なほど、私達にはそれぐらいの能力しかなく、またそれほど大いなる一日を私達に主は与えて下さっているのです。
今日を精一杯、主に忠実に心からの愛と誠実を以て、主の御心を思い、願い、祈り、御心が成るように生きるだけで、充分大変なこと、それ以上の能力は私達には与えられていないのです。
どれほど小さなことに見えても、主の御心を思い忠実に生きる。
この一年も神の御心が成るように、まず今日一日を誠実に積み重ねる、大切な日々を歩んで下さい。
主の祝福を心よりお祈りしています。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【詩篇113篇】
113:1 主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主のみ名をほめたたえよ。
113:2 今より、とこしえに至るまで主のみ名はほむべきかな。
113:3 日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。
113:4 主はもろもろの国民の上に高くいらせられ、その栄光は天よりも高い。
113:5 われらの神、主にくらぶべき者はだれか。主は高き所に座し、
113:6 遠く天と地とを見おろされる。
113:7 主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、
113:8 もろもろの君たちと共にすわらせ、その民の君たちと共にすわらせられる。
113:9 また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ。
【ルカ6:20-26】
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
6:21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
【コロサイ1:15-18】
1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
【エペソ1:3-12】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
【出エジプト12:1-20】
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
(新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ(年の頭の意)」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。(民数記29:1)」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。)
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。
【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。
【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。
【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。
【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
(新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ(年の頭の意)」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。(民数記29:1)」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。)
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。
【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。
【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。
【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。
【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
【イザヤ25:6-9】
25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
25:7 また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
25:9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。
私達に与えられた救いという事実は永遠です。そしてすでに完成されたものです。
確かにまだ体こそ贖なわれず(ローマ8:23、2コリント5:1-9)、この地においてはうめき叫んでいますが、その内には永遠の命があり、霊において私達はすでに永遠の存在とされています。
この地にある全てのものは過ぎゆき消えて行くものですが、私達自身は永遠の存在とされているのです。
だから永遠の神の御国に生きている、天に国籍(ピリピ3:20)を持つ、天から来た存在(エペソ2:4-7)とされているのです。
【イザヤ25:8】
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。
【黙示録21:3-5】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。
まさに死は滅ぼされ、涙はぬぐわれる。それは先のものが過ぎ去り、すべてが新しくなったからです。
私達はここに神が奥義としてこの世の終わり、その後に完成される新しい天と地、永遠の都新しいエルサレム(「この山」イザヤ25:6,7)として、キリストの花嫁として、私達教会が花婿キリストと結婚し一つとなり、永遠に共に住まう、天国が完成する姿の中に表される私達の姿を見ることができるのです。
それは永遠の先にあるものではなく、救われたその日から私達に与えられたもの。
驚くべきことに永遠は私達の中にすでに新しい命と共に入り込み、この命こそ、天から来て天の国籍を私達に与え、永遠の先にある完成されたこの天国の奥義に、今私達を突入させるものなのです。
【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
この絶大なる恵み、完成された救いこそ、人の力では決して与えられないものであるということがわかるでしょう。
だからこそ、この救いは私達「自身から出たものではなく、神の賜物である(エペソ2:8)」としか言えないものなのです。
これがあなたに与えられた救いです。
どうでしょうか?
すでに私達の理解すらはるかに超えるこの恵みは、聖霊によりおおいが取り除かれ(イザヤ25:7、2コリント3:12-18)初めてわかるのですが、つまりは私達が神に祈り、賛美し、礼拝をささげるとき、この礼拝は天での礼拝にまで引き上げられ、一つとされ、全ての時間を超えて永遠の中に私達は入れられ、時間を忘れて主と交わるのです。
いつまでも祈りがとどまらないこともあれば、一瞬の間に時が止まったように永遠の礼拝をささげることもある。
私達は有限の時間の流れの中にいながら永遠に生き、地上に居ながら天の御国に生きている。
このような驚くべきことを日常の中に持つ者が、私達以外に世界中のいったいどこにいるでしょうか。
ここに私達が救いを受けたときに、如何に絶大なものを受け取ったのかということがわかるのです。
そうです。あなたは主に救われたあの日から、一日たりともこの驚くべき恵みから出されたことはないのです。
この中であなたの当たり前に見えていた一日は、あなたを通して地に天が入り込むように生きていたのです。
この中であなたは今年も、主の恵みの内に一年を過ごして来たのです。
救いの喜びを忘れていませんか?
ですから、今静かに目を閉じ、主に自らの全てをささげてみて下さい。
この世の喧噪を離れ、心にある全てのことを横に置いて、この救いを自らの命の代価によって与えて下さった、愛する主イエスにのみ心を向けて。
ただ静かに、主の安息の内に。
そう、そこに永遠の天の御国は溢れているのです。
【ローマ12:1,2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
【ピリピ3:20,21】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
【エペソ2:4-7】。
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
【2コリント3:12-18】
3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
25:7 また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
25:9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。
私達に与えられた救いという事実は永遠です。そしてすでに完成されたものです。
確かにまだ体こそ贖なわれず(ローマ8:23、2コリント5:1-9)、この地においてはうめき叫んでいますが、その内には永遠の命があり、霊において私達はすでに永遠の存在とされています。
この地にある全てのものは過ぎゆき消えて行くものですが、私達自身は永遠の存在とされているのです。
だから永遠の神の御国に生きている、天に国籍(ピリピ3:20)を持つ、天から来た存在(エペソ2:4-7)とされているのです。
【イザヤ25:8】
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。
【黙示録21:3-5】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。
まさに死は滅ぼされ、涙はぬぐわれる。それは先のものが過ぎ去り、すべてが新しくなったからです。
私達はここに神が奥義としてこの世の終わり、その後に完成される新しい天と地、永遠の都新しいエルサレム(「この山」イザヤ25:6,7)として、キリストの花嫁として、私達教会が花婿キリストと結婚し一つとなり、永遠に共に住まう、天国が完成する姿の中に表される私達の姿を見ることができるのです。
それは永遠の先にあるものではなく、救われたその日から私達に与えられたもの。
驚くべきことに永遠は私達の中にすでに新しい命と共に入り込み、この命こそ、天から来て天の国籍を私達に与え、永遠の先にある完成されたこの天国の奥義に、今私達を突入させるものなのです。
【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
この絶大なる恵み、完成された救いこそ、人の力では決して与えられないものであるということがわかるでしょう。
だからこそ、この救いは私達「自身から出たものではなく、神の賜物である(エペソ2:8)」としか言えないものなのです。
これがあなたに与えられた救いです。
どうでしょうか?
すでに私達の理解すらはるかに超えるこの恵みは、聖霊によりおおいが取り除かれ(イザヤ25:7、2コリント3:12-18)初めてわかるのですが、つまりは私達が神に祈り、賛美し、礼拝をささげるとき、この礼拝は天での礼拝にまで引き上げられ、一つとされ、全ての時間を超えて永遠の中に私達は入れられ、時間を忘れて主と交わるのです。
いつまでも祈りがとどまらないこともあれば、一瞬の間に時が止まったように永遠の礼拝をささげることもある。
私達は有限の時間の流れの中にいながら永遠に生き、地上に居ながら天の御国に生きている。
このような驚くべきことを日常の中に持つ者が、私達以外に世界中のいったいどこにいるでしょうか。
ここに私達が救いを受けたときに、如何に絶大なものを受け取ったのかということがわかるのです。
そうです。あなたは主に救われたあの日から、一日たりともこの驚くべき恵みから出されたことはないのです。
この中であなたの当たり前に見えていた一日は、あなたを通して地に天が入り込むように生きていたのです。
この中であなたは今年も、主の恵みの内に一年を過ごして来たのです。
救いの喜びを忘れていませんか?
ですから、今静かに目を閉じ、主に自らの全てをささげてみて下さい。
この世の喧噪を離れ、心にある全てのことを横に置いて、この救いを自らの命の代価によって与えて下さった、愛する主イエスにのみ心を向けて。
ただ静かに、主の安息の内に。
そう、そこに永遠の天の御国は溢れているのです。
【ローマ12:1,2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
【ピリピ3:20,21】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
【エペソ2:4-7】。
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
【2コリント3:12-18】
3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
【創世記】
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。
【マルコ6:48-51】
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
自分の力ではどうにもできない現実を前に、心静めて、もう一度、頼るべき方は誰なのかを思い出してください。
そこにこそ主が居られる。
私達が寄る辺ないときこそ、主がそばに居られ、
私達の力が尽きるときこそ、主の御業が現れるときなのです。
そこに十字架にかかられた主イエスが、天から地にかけられた梯子となられ、居られるのがわかるでしょう。
それは天が開かれ、天と地がつながり、私の地上のすべての悩みを超えて、私が主の御側に引き上げられ、天の御座のすぐ近く、主と直接天の御国にある交わりに入れられる、天の祝福が地上に溢れる瞬間。
【創世記28:12】
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
【ヨハネ1:51】
1:51 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
そして、私の死につける全てのものが、主の十字架にあって、よみがえりに、勝利に飲み込まれる瞬間。
【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
そうです。そこに、よみがえりの主が溢れる愛をもって両手を広げ、あなたのすぐそばで、あなたを恵もうと、待ちかまえて居られるのを、あなたは知るでしょう。
だから、現実に目を閉じ、いや主への信仰によって目を開き、霊の目をさましてください。
ここからが主の働かれるとき、主との至高の交わりを知るときです。
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。
【マルコ6:48-51】
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
自分の力ではどうにもできない現実を前に、心静めて、もう一度、頼るべき方は誰なのかを思い出してください。
そこにこそ主が居られる。
私達が寄る辺ないときこそ、主がそばに居られ、
私達の力が尽きるときこそ、主の御業が現れるときなのです。
そこに十字架にかかられた主イエスが、天から地にかけられた梯子となられ、居られるのがわかるでしょう。
それは天が開かれ、天と地がつながり、私の地上のすべての悩みを超えて、私が主の御側に引き上げられ、天の御座のすぐ近く、主と直接天の御国にある交わりに入れられる、天の祝福が地上に溢れる瞬間。
【創世記28:12】
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
【ヨハネ1:51】
1:51 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
そして、私の死につける全てのものが、主の十字架にあって、よみがえりに、勝利に飲み込まれる瞬間。
【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
そうです。そこに、よみがえりの主が溢れる愛をもって両手を広げ、あなたのすぐそばで、あなたを恵もうと、待ちかまえて居られるのを、あなたは知るでしょう。
だから、現実に目を閉じ、いや主への信仰によって目を開き、霊の目をさましてください。
ここからが主の働かれるとき、主との至高の交わりを知るときです。
【ルカ2:13,14】
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
羊飼いに御使が現れ、救い主の誕生が語られたとき、天の御国が力をもって地上に現れました。
地上に天の栄光が押し入って来ています。
まさにこの後に語られる「悔い改めよ、天国は近づいた(ルカ3:2)」という言葉の通りのことがここに始まりました。
このことを「地の上では、み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して、主は成そうとされました。
主の御心に添う、小さな者達を通して。
【ルカ10:21,22】
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
10:22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。
この御心にかなう者達が幼な子と呼ばれる、知恵のない者や賢くない者達であったことは何と幸いなことでしょう。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない(ルカ18:16,17)」とイエスは幼な子らを呼び寄せて言われ、親がいなければ何もできない無力で最も小さな幼な子を、神の国の住人に最もふさわしい者としてご自身の元に招かれました。
また、主ご自身が「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」と語られ、決してこの世での豊かな者に神の国を与えようと語っていないのもあわれみの深い主の御心です。
【マタイ21:31,32】
21:31 イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
そして、ここでは罪深く自らの罪をよく知る取税人や遊女が神の国に真っ先に入ることが語られ、「祭司長たちや民の長老たち(マタイ21:23)」よりも先に、それまで神の国に遠いとされ、さげすまれていた者達が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。[中略]わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マタイ9:12,13)」と語られ、主はご自身からそのような者達に近づかれ親しく交わられ、彼らは神の国に入れられていったのです。
まさに天(の御国)にある神の栄光をもって「地の上」に、「み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して天にある神の平和(シャローム)があるように、神は願われました。
実に神の御業は麗しく、人の知恵によってはこの神の国に至らず、この世が与える豊かさも、人の持つ一切の力も、自らの正しさも、神の国に入る妨げにしかならない。
それらを全く持たないおよそ人の目に神の国にふさわしいと思えぬ者達に神の国は開かれたのです。
【ヨハネ3:16】
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
今私達はこのような恵みの中にいます。
私達はただ主の一方的なあわれみにより、主ご自身が地に降り、ご自身の命を私達の贖いのためにささげて下さった計り知れない愛により、天の御座にまで引き上げられ、今この天の賛美の中に加えられているのです。
それはこの地に、私達のような神の国におよそふさわしくない者達が、ただ神のあわれみのみによって神の国に入れられ、それによって、地に神の平和(シャローム)が現れるためだったのです。
【エペソ2:4-7】
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
何という人知を超えた、言葉に尽くせない恵みでしょうか。
これを喜ばずにいられるでしょうか。
これほどの御業を誰が想像し、理解することができるでしょうか。
どのようにこの感謝を神にささげたらいいのでしょうか。
だからこそ、天も地もこの素晴らしき方、神の前に永遠の賛美を捧げざるを得ないのです。
そして今日こそ、その神の御子が私達に与えられたことを感謝し賛美するにふさわしい日、クリスマスです。
だから、この恵みの日を神への感謝と賛美の一日としましょう。
さあ、共に永遠にとどまることのない神への礼拝をささげましょう。
【黙示録4:10-11,5:9-14】
4:10 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
4:11 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
[中略]
5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
5:14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
羊飼いに御使が現れ、救い主の誕生が語られたとき、天の御国が力をもって地上に現れました。
地上に天の栄光が押し入って来ています。
まさにこの後に語られる「悔い改めよ、天国は近づいた(ルカ3:2)」という言葉の通りのことがここに始まりました。
このことを「地の上では、み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して、主は成そうとされました。
主の御心に添う、小さな者達を通して。
【ルカ10:21,22】
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
10:22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。
この御心にかなう者達が幼な子と呼ばれる、知恵のない者や賢くない者達であったことは何と幸いなことでしょう。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない(ルカ18:16,17)」とイエスは幼な子らを呼び寄せて言われ、親がいなければ何もできない無力で最も小さな幼な子を、神の国の住人に最もふさわしい者としてご自身の元に招かれました。
また、主ご自身が「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」と語られ、決してこの世での豊かな者に神の国を与えようと語っていないのもあわれみの深い主の御心です。
【マタイ21:31,32】
21:31 イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
そして、ここでは罪深く自らの罪をよく知る取税人や遊女が神の国に真っ先に入ることが語られ、「祭司長たちや民の長老たち(マタイ21:23)」よりも先に、それまで神の国に遠いとされ、さげすまれていた者達が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。[中略]わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マタイ9:12,13)」と語られ、主はご自身からそのような者達に近づかれ親しく交わられ、彼らは神の国に入れられていったのです。
まさに天(の御国)にある神の栄光をもって「地の上」に、「み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して天にある神の平和(シャローム)があるように、神は願われました。
実に神の御業は麗しく、人の知恵によってはこの神の国に至らず、この世が与える豊かさも、人の持つ一切の力も、自らの正しさも、神の国に入る妨げにしかならない。
それらを全く持たないおよそ人の目に神の国にふさわしいと思えぬ者達に神の国は開かれたのです。
【ヨハネ3:16】
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
今私達はこのような恵みの中にいます。
私達はただ主の一方的なあわれみにより、主ご自身が地に降り、ご自身の命を私達の贖いのためにささげて下さった計り知れない愛により、天の御座にまで引き上げられ、今この天の賛美の中に加えられているのです。
それはこの地に、私達のような神の国におよそふさわしくない者達が、ただ神のあわれみのみによって神の国に入れられ、それによって、地に神の平和(シャローム)が現れるためだったのです。
【エペソ2:4-7】
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
何という人知を超えた、言葉に尽くせない恵みでしょうか。
これを喜ばずにいられるでしょうか。
これほどの御業を誰が想像し、理解することができるでしょうか。
どのようにこの感謝を神にささげたらいいのでしょうか。
だからこそ、天も地もこの素晴らしき方、神の前に永遠の賛美を捧げざるを得ないのです。
そして今日こそ、その神の御子が私達に与えられたことを感謝し賛美するにふさわしい日、クリスマスです。
だから、この恵みの日を神への感謝と賛美の一日としましょう。
さあ、共に永遠にとどまることのない神への礼拝をささげましょう。
【黙示録4:10-11,5:9-14】
4:10 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
4:11 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
[中略]
5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
5:14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
【ルカ2:6,7】
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
救い主の存在は人を必ず二つに分けてしまいます。
彼を受け入れる者と、彼を拒絶する者。
彼の存在はその生まれたときから、このことをはっきりとさせていました。
人は彼が生まれてくるのを拒絶したのです。
拒絶された救い主それがイエスキリストです。
【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
私達が私達自身の力で、光を持つのであれば、彼の存在は迷惑なものとなるでしょう。
彼自身がまことの光であり、私達が輝く、あるいは作り出す光は、この光の前では何の意味もないもの。まことの光の圧倒的な輝きの前では、私達の光は闇に等しく、そこに命はありません。
【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
命の光はそれを受け入れた者には命になるけれど、自らの光を保ちたい者には、まことの光は、自らの光がやみと変わりないことを現してしまう。
だから、自らに光を見出そうとする者は、まことの光を拒絶するしかできないのです。
【ヨハネ1:5】
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
「輝く自分になる」「光ある未来へ」そんなキャッチコピーが町には溢れ、クリスマスの街角はもう12月の始めから輝きっぱなしですが、この命のない偽りの光こそまことの光を拒絶するものです。それは私達でさえも。
自らの力で作り出した希望。毎日の生活を安定して与える豊かさ。それを支える金銀の輝き。光でつながる情報化社会に知識は溢れ、まるで一人一人が賢者のよう。
この豊かで平和に見える光溢れる生活を乱されたくない、神でさえも。
人の心は光ではなく闇を好んでいるに過ぎません。
【マタイ2:1-3,16】
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
[中略]
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
【ヨハネ】
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
しかし、暗き地を歩む者、神にしか頼るものがない者には、光が照ったのです。
それはまことの光を拒絶せず、いや拒絶しえない者だからこそ、その光を受け入れ、命を受けたのです。
【マタイ4:16】
4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
さて、今あなたはどうでしょうか?
これはかつて神を知る民イスラエルに救い主が与えられたのと同様に今クリスチャンである私達に問われています。
救い主イエスキリストを拒絶しないなら幸いです。
この方にのみ希望を持ち、この方にのみ寄りすがり、この方のみを光とし、この方のみを必要としこの方を求める者、この方を受け入れる者は幸いです。
命の光を得るでしょう。
そして、そのような者はいつでも飼い葉桶に眠る救い主に出会えることでしょう。人が拒絶し出会えなかった、羊飼いや博士達のように小さな寄る辺ない者にのみ出会うことのゆるされた小さな救い主に。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
救い主の存在は人を必ず二つに分けてしまいます。
彼を受け入れる者と、彼を拒絶する者。
彼の存在はその生まれたときから、このことをはっきりとさせていました。
人は彼が生まれてくるのを拒絶したのです。
拒絶された救い主それがイエスキリストです。
【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
私達が私達自身の力で、光を持つのであれば、彼の存在は迷惑なものとなるでしょう。
彼自身がまことの光であり、私達が輝く、あるいは作り出す光は、この光の前では何の意味もないもの。まことの光の圧倒的な輝きの前では、私達の光は闇に等しく、そこに命はありません。
【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
命の光はそれを受け入れた者には命になるけれど、自らの光を保ちたい者には、まことの光は、自らの光がやみと変わりないことを現してしまう。
だから、自らに光を見出そうとする者は、まことの光を拒絶するしかできないのです。
【ヨハネ1:5】
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
「輝く自分になる」「光ある未来へ」そんなキャッチコピーが町には溢れ、クリスマスの街角はもう12月の始めから輝きっぱなしですが、この命のない偽りの光こそまことの光を拒絶するものです。それは私達でさえも。
自らの力で作り出した希望。毎日の生活を安定して与える豊かさ。それを支える金銀の輝き。光でつながる情報化社会に知識は溢れ、まるで一人一人が賢者のよう。
この豊かで平和に見える光溢れる生活を乱されたくない、神でさえも。
人の心は光ではなく闇を好んでいるに過ぎません。
【マタイ2:1-3,16】
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
[中略]
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
【ヨハネ】
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
しかし、暗き地を歩む者、神にしか頼るものがない者には、光が照ったのです。
それはまことの光を拒絶せず、いや拒絶しえない者だからこそ、その光を受け入れ、命を受けたのです。
【マタイ4:16】
4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
さて、今あなたはどうでしょうか?
これはかつて神を知る民イスラエルに救い主が与えられたのと同様に今クリスチャンである私達に問われています。
救い主イエスキリストを拒絶しないなら幸いです。
この方にのみ希望を持ち、この方にのみ寄りすがり、この方のみを光とし、この方のみを必要としこの方を求める者、この方を受け入れる者は幸いです。
命の光を得るでしょう。
そして、そのような者はいつでも飼い葉桶に眠る救い主に出会えることでしょう。人が拒絶し出会えなかった、羊飼いや博士達のように小さな寄る辺ない者にのみ出会うことのゆるされた小さな救い主に。
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