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主への負債
【ローマ1:14,15】
1:14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
「果すべき責任がある。」という言葉は、「返さなければならない負債を負っています。(新改訳)」という言葉です。
パウロは主イエスに対してこの思い持っているのです。
私の罪のために払われた、御子の命というとてつもない代価。
この御子の命の計り知れない価値を私達は本当に知っているでしょうか。
私達の罪は、どれほどに小さいものに見えても、その罪というもの自体が神に敵対するサタンの性質、サタンから受け継いだもの(ヨハネ8:44)です。
それゆえに、神の御子の命という途方もない価値を持つ代価でしか贖うことのできないほどの、恐ろしいもの(詩篇49:7-9)なのです。それは永遠の滅びに価するもの。
【エペソ2:1-3,11-13】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
[中略]
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
あまりに罪深くおよそ救われるはずのない者。
言葉に尽くせないほどの神の大いなる恵みなどには、とてもとてもあずかるはずのない者。
それが私達です。
私達が主イエスに負っている負債はあまりに大きいのです。
そのことを知る者は、多く主イエスを愛し、その負債を主イエスにこの人生をもって、この命をもって、いかに返すことができるのかということを考えるようになるのです。
【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
あなたはどれほど主に愛されているのかを知っていますか?
この方の愛を知っている者は、この方の渇きを知っているはずです。
救われるべき多くの魂が、死に、滅びに向かうことを悲しみ、断腸の思いで渇いておられるのを。
【ローマ1:16】
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
だからパウロは続く御言葉にあるように、福音を恥とはせず、誰の前にもその福音を隠すことなく証しし、ローマで鎖につながれたままでも福音を語り続け、やがてその福音に命をささげたのです。
それが主イエスに負債を返そうと、その愛に答えようと、パウロがささげた最高の主へのささげもの。
そのために彼は生まれ、そのために彼は生きたのです。
最高の主へのささげもの、そのために私達は新しく生まれたのです。
あなたはどのように主を愛しますか?
その与えられた新しい命をもって。
2015/01/26(月)
17:46
今日の聖書
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とりなしの手をあげる
【創世記18:17-33】
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。
主を知らない民が、知らないがゆえに、いや知らないと言えども主を退け主の思いに逆らい、罪を重ね続け、その重なる罪のあまりの大きさ(酷さ)のため、滅びに至ろうとしているのを見た時、私達は何をすべきでしょうか。
そこに自らの家族が居るとするならば、どうでしょうか。
これがアブラハムがこの時置かれていた状況です。
そして今私達の置かれている状況はどうなのでしょうか。
【ユダ7節】
1:7ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
この国の罪深き状況はすでにソドムとゴモラと同様であり、さらにそれ以上の罪を重ねようとさえしている姿を見て、神はこの国をこのままで放置されることはないでしょう。
刻一刻と自らの選択で滅びに向かう国に、私達も住まいまた家族や大切な人々がそこに生きている。
【マタイ】
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
だからこそ、主はこの国の滅びの日が遠くないことをあなたに教えられていないでしょうか?
アブラハムは祝福を受ける者として、また主の正義と公道が彼を通して現されるために、主に立てられた者であり(創世記18:17-19)、私達も救われてアブラハムの祝福にあずかる者となった以上、同様に主の正義と公道が私達を通して現されることを主は願っているでしょう。
つまり、アブラハムと同様に私達はこの国を主から与えられており、この国を主の正義と公道によって治める者としての責任を負っているのです。
だからこそ、主はご自身の計画を私達に隠されることはない。
【アモス3:7,8】
3:7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。
だから、今なおさら主の前に、この国の滅びのために、私達はこのアブラハムのようにとりなす必要があるのです。
この国が神に立ち返るように。
アブラハムは何度も何度も主に食い下がり、とりなしを止めることなく、五十人の正しい人から始まり、たった十人の義人さえ居れば、主の裁きがとどめられるようにまで、引き下がることなく、あきらめることなく、とりなしました。
それは主の前に、なりふり構わない必死のとりなしであったと言えるでしょう。
おそらくは、ロトの家族だけで六人はいたのですから、ただあと四人の義人が居れば、ソドムとゴモラの土地は滅ぼされないで済むと、アブラハムはそこまでとりなした。
しかし、結果はその十人にさえ到底至らず、この裁きを免れ生き残ることができたのはロトとその二人の娘のたった三人でした。
ですから、主にとりなしを祈る時、自らのことのように主にとりなし、最後の一歩に至るまで予断をゆるさず、自らの命さえ投げ出して、とりなす必要があるのです。
【出エジプト】
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば--。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
いや、このとりなしはそもそもは神ご自身の心なのです。だから主イエスご自身が命を十字架にささげ、究極のとりなしをなされた。
神は私達が滅びることを願ってなどいないのです。
むしろ罪から立ち返り、救われることを切望しておられるのです。
【エゼキエル】
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。
主はこの滅びへの破れ口に立ちとりなす者を待っておられるのです。
そうです。主はご自身と心一つにして、自らのことをかえりみず、その命をささげとりなしの祈りを祈るのを。あなたの祈りを待っているのです。
【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
あなたとあなたの大切な人々の住むこの国が、神の前に立ち返り滅びを免れるように共に祈ってまいりましょう。
2015/01/22(木)
07:31
今日の聖書
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御言葉に生きる
【詩篇119:111,112】
119:111 あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。
119:112 わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。
詩篇119篇は御言葉について、ヘブル語のアルファベット順に並ぶ詩篇の集まりで、一つ一つの詩篇はそのアルファベットを最初の一文字とした、とても美しいヘブル文学の形式で語られています。
その中にある、「さとし」「戒め」「おきて」「定め」「知恵」「約束」「あかし」などの一言一言が御言葉を表す言葉であり、御言葉のあらゆる側面を知ることのできる詩篇です。
御言葉は主イエスそのものであり、私達の内に住まわれる聖霊(キリストの御霊)が御言葉を照らし出すとき、私達は主イエスご自身と交わるように親しく御言葉を知ることができる。
それが御言葉であり、この詩篇の中で作者があらゆる人生の場面において、この御言葉をいかに愛し、いかに深く交わり、いかにその人生を支えられ、導かれ、御言葉を生涯守って生きることがいかに幸いか、喜びなのかを、生き生きとした御言葉との交わりを通して語っているのです。
まさしく、それが生ける御言葉なる主イエスとの交わり。
【ヨハネ10:2-5】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
聖書を読んでも最初はわからないことも多いでしょう。しかし、この御言葉との交わりをあきらめずに主が語りかけられることのみ、今心に響きわかることのみに静かに耳を傾けて行くのであれば、その意味はやがて理解することができます。
まさしく、羊は羊飼いの「声を知っているので」必ず少しずつでも聖書から主が語られる声を私達は聞くことができ、それに導かれて生涯を歩むことができる。「彼について行く」ことができるのです。
そのようにして私達は、律法主義的ではなく愛の関係において、この御言葉を守ることができるのです。
【イザヤ29:13】
29:13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
もしも、私達に主イエスとの交わりを抜きに聖書を守ることだけを、または聖書を、そのために知ることだけを目的とする、宗教的な生き方だけを信仰と言うのであれば、それは主から心離れ、形だけのものとなるでしょう。
主から心離れて御言葉を知ることはできませんから、人からの知識や学び、メッセージなどを通してしか主を知ることができない。
それでは、それが主イエスからの声なのか、別の者の声なのかを知る術はないでしょう。
聖書の御言葉のみが偽ることのない真理ですから、この声を聞かずして、羊飼いの声を聞き分けているということはできないのです。
ましてや聖書を読まずに信仰生活を送ろうとすることなど、なおさら同様のことが言えます。
【2テモテ4:3,4】
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
終わりの日に向けパウロがテモテに書いた警告は、今主の御言葉との直接的な深い交わりを避けて歩む者達に、強く語られています。
つまりその警告は、まことの羊飼いではない者の声を聞き分け、滅びに惑わす道から立ち戻り、私達のために命をも捨てる真の羊飼いの声のみを聞き、導かれて歩むよう勧めているのです。
【ヨハネ10:10,11】
10:10 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
さあ、今日も聖書を開け、あなたに語りかける主の愛をしっかり受け取りましょう。
この御言葉があなたの生涯を支え、最良の歩みへと導くのですから。
2015/01/15(木)
07:24
今日の聖書
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祝福の地に生きる
【申命記11:10-16】
11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
11:13 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、
11:14 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、
11:15 また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
11:16 あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。
エジプトは一年を通して雨があまり降らない土地であり、年に周期的に起きるナイル川の洪水を利用し灌漑することによって、初めて農業を行なえる土地でした。
洪水時に貯水し、洪水が引くと排水して耕地とし、作物を植えるのです。
定期的に貯水と排水を繰り返すことによって土壌の塩分が除かれ、周期的に肥沃な土が堆積されるという意味では豊かな土地ではありましたが、灌漑を人の手でしなければならない、「あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。(申命記11:10)」とあるように、非常に労力のかかる土地でした。
つまり、世を現すエジプトの生活は常に人の力によって生きなければならない、非常に苦労の多い、あるいは人が自分の力で生きることを止めてしまえば、生きることのできない過酷な生き方です。
しかし、主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、彼らに与えた約束の地はそうではありません。
「しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。(申命記11:11)」とあるように、山があるからそこに雲がぶつかりその下に雨が降り、谷があるからそこに川が流れる。天然の地形に恵まれるから、ちゃんと必要なときに雨が降る、人の力によらずに潤った土地、「乳と蜜の流れる国(申命記11:9)」だったのです。
主に救われた私達の生き方は本来このようなものです。
私達の努力には一切よらず、主の与えたもう主の豊かさだけで、全ては満たされ潤う生活。
世から出て、主の御手の内に生きる生活とはそのような約束の伴う土地なのです。
しかし同時にそれは、「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、(申命記11:13)」とあるように、主の御心(「わたしの命令」=御言葉)に従い生きて、主を全身全霊を以て愛することによってもたらされる、主の祝福であるのです。
それは言い換えるのであれば、肉に歩まず御霊に導かれて歩む(ローマ8:11-17)、信仰による生活。
しかし、一度自分の力による生活、つまり肉の欲を満たす肉による生活(ガラテヤ5:16,17)を送ろうとするのであれば、それは世を愛する(1ヨハネ2:15-17)生き方であり、エジプトに逆戻りし、エジプトの奴隷生活つまり世の奴隷、罪の奴隷として生き続ける生活が待っているのです。
それは神から心離れ、欲を満たす代わりに祝福を奪い取りのろいと変える神々に仕え、拝む生活(申命記11:16)となる。
何と恐ろしいことでしょうか。
自分のために生きることと、主のために生きること。
自分の欲を満たすために生きる生活と、神を愛し神の御心に従う生活。
この境目は紙一重ですが、その結果はエジプトの生活と約束の地の生活以上の大きな差、祝福とのろい、命と死という大きな結果の違いとなって現れるのです。
あなたは今年、年の始めから年の終りまで、どのように過ごすことを望まれるでしょうか。
私はあなたに、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。(申命記11:12)」
という信仰の地に生きられることを望んでいます。
どうかこの年も主の祝福があなたの上に豊かにありますように。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ローマ8:11-17】
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
【ガラテヤ5:16,17】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
2015/01/14(水)
11:15
今日の聖書
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聖霊のバプテスマ
【使徒行伝19:1-6】
19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
19:2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
19:3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
19:4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
19:5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
19:6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。
「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」
この質問はとても単刀直入に感じます。
しかし、だからこそこの質問の内容がとても重要なことであることがわかります。
聖霊のバプテスマを受けることをパウロがいかに重要なこととして捉えていたのかはその後の質問と、行動によって知ることができます。
その質問のやりとりは、誰の名によりバプテスマを受けたのかという言葉が続き、その違いを明確化するものでした。
つまりバプテスマのヨハネが授けたのは水により悔い改めのバプテスマを授けたのですが、主イエスの名により、水の洗礼を受ける必要があった。
それは意味が全く異なるバプテスマであったからなのです。
【ローマ】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
この主イエスの名によるバプテスマとは、同じ水のバプテスマですが、主イエスキリストの死とよみがえりにあずかるバプテスマであるということがわかります。
つまり主により新しい命を授けられ、これまでとは異なる命(これまでの命とは生来の命であり、すでに死につけられている)により生きる、全く新しい者として生まれたことを現すものです。
しかし、パウロはそれだけにとどまらず、さらに彼らの上に手を置いて、結果彼らは聖霊のバプテスマを受けました。
パウロがそのような行動をとった理由は、バプテスマのヨハネ自身が語った言葉の中に明らかにされています。
【ルカ3:16】
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」
バプテスマのヨハネは、主イエスについて証しをすると同時に、バプテスマのヨハネ自身が授けているバプテスマ(水)と、主イエスが授けるバプテスマ(聖霊と火)の性格が根底的に全く違うということを語っています。
そして、それは人によっては決して授けることのできない、神によらなければ授けることのできない性格の、ありえないバプテスマを語っているのです。
だからこそ、このバプテスマは天的なものであり、特殊で重要なものであることがわかるのです。
主イエスは天に上って行かれる直前にこのバプテスマの重要性を語りました。
【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
【使徒行伝1:8】
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
ここにこの聖霊のバプテスマを受ける者は天(上)から力を授けられるとあります。
この力は『デュナミス』という言葉であり、ダイナマイトの語源にもなった、爆発的な力を意味する言葉です。
つまり、天的な(神的な)絶大なる力を授けられるものそれが聖霊のバプテスマであり、その力により私達を地の果てにまで主イエスの証人とするものなのです。
いや、だからこそ、初代教会の兄弟姉妹が爆発的に世界宣教へと拡大していく力を与えられていたことは使徒行伝の記述を見れば明白なことでしょう。
またこの「証人」とは殉教者の意味を含む言葉でもありますので、自らの命をも顧みないということでもあります。
が言い換えるなら、自らの命よりもはるかに価値のあるもの、天の御国とその御座に居られる王なる方、主イエスという永遠に最も価値あるものを見させる力が私達の内に働くということがよくわかるのです。
【使徒行伝7:54-60】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
パウロはこのステパノの死にゆく様を恐らく間近で見た者であったでしょう。そのステパノに主イエスが十字架の上で言われた言葉と同様の言葉を言わしめた力を。
天の御国を見た者が、喜びに満ちて神に命をささげる様を彼は間近で見たはずです。
いやそればかりでなく、後にクリスチャンの熱心な迫害者となったパウロは、多くのクリスチャンを迫害する中で、神から注がれた証人としてのこの絶大な力を、最も近く目の当たりにし続けたことでしょう。
だから、この聖霊のバプテスマを受ける重要性を最もよく知っていた。いや自分自身が後にこの著しい力に押し出されて宣教し続けたのです。
だからこそ彼は、今日の聖書の箇所で最初に彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」と尋ねたのです。
今この聖霊のバプテスマということが教義の分裂ということだけでタブー視されがちです。
しかし聖書にはこの聖霊のバプテスマは現代の時代には存在しなくなったとか、著しい聖霊の働きは今は見られないといったようなことは、聖書のどこを探しても語られていません。
確かに全ての霊の働きが神からのものとは限りませんから、よく吟味する必要はありますが、しかし全ての霊的に著しい働きが悪霊からのものということは神にゆるされていません。
【マタイ12:31,32】
12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
むしろ、聖霊のバプテスマを受け、さらに聖霊に満たされ続ける歩みの重要性の方がはるかに多く聖書には語られているのです。
聖書に語られている御言葉はそのまま信じるに価します。いやそこからしか、神を知り神に近づく道は存在しないのです。
むしろ終わりの時代主が再びこの地に来られる時に、主への信仰がなくなっていくことを「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか(ルカ18:8)」と、主は気にかけられているのです。
ですから、私達は今一度この聖書に書かれている御言葉を、そのまま信じるという立場に立ちましょう。
そして、主イエスがこの地を去られ天に上られる時、私達に託した主の願い大宣教命令と共に、そのために「上から力を授けられる(ルカ24:49)」よう主が語られた御言葉をそのまま受け止めたいと思います。
さあ共に、主のご計画が地になり、この地を、この国を、主が勝ち取られるために、大いなる主の絶大なる力が注がれる必要があることを主に訴えましょう。
主より聖霊のバプテスマ、上よりの力を授けられるよう、共に祈ろうではありませんか。
2015/01/13(火)
13:49
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心砕かれる
【詩篇34:18】
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。
私達の性質は根本が高慢です。
全てが神により与えられたもの、全てを成したのは主であるのに、私達はそれを自分の何かのように、主の栄光を自らのものとして誇ります。
自分の経験、知識、力、信仰、自分の何ものかで成し遂げた、あるいはその何ものかがあるからこそ、今日をまた毎日を生きることができると考える。
残念なことに私達はそれに全く気づきません。私達は毎日自然にそのように生きている。
私達は人としての成り立ちの根本を忘れ、神に背中を向けて、自らを誇り、自らの力により生きていると勘違いして生きている、それが私達の姿です。
忘れてしまっているのです。知らないのです。
自分が一被造物に過ぎず、塵のような存在であり、創造主である神に生かされて生きているということを。
自分が自然に神を必要としないで、だからこそ神に背中を向けて生きているのだということを。
聖書にあるヨブという人物は、神が誇るほどに義人でありました。彼は自分の信仰により、罪を犯さないように生き、その正しい行いのゆえに神はサタンに彼の義人であることを「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか(ヨブ1:8)」と誇りました。
ですから、彼は子供たちも、持ち物も、自分の健康でさえ失い、全てを失ってても、「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった(ヨブ2:10)」のです。
彼は行いに於いても、言葉に於いても正しかった。
しかし、彼は彼を見舞いに訪ねた友人に罪を犯したからこの苦しみにあったかのように責められ苦しみます。そして苦しんだからこそヨブは、その言い分に於いて自らを正しい(義)として語り続け、神よりも自らを正しいかのように主張し、神に罪を犯すのです。
【ヨブ33:9-11】
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、わたしのすべての行いに目をとめられる』と。
しかし、彼の全ての行いも、全ての信仰を守ることができる生活を与えられていたのも、その生きる全てのことが、その毎日一刻一秒が神により与えられたもので生きていたことを、むしろ神に与えられないで生きれるものなど何もなかったことを、神ご自身がヨブの前に現れ、そのことを現されるのです(ヨブ38-41章)。
そうです。私が何を自ら誇って生きていたのかを知る。
神ご自身が私達に臨まれ、私の全てが神の前に光の内に全てさらされたなら、私達はひとかけらも自らの何ものかによって生きてきたなどと言うことはできないほど、全ての全てが神によって与えられていたことを知るでしょう。
神はどれほど私達を愛してやまないのでしょうか。
さらに神の前に自らが義人として生きてきたことが、神の義によるものであったことを知るでしょう。
つまり、神よりも正しいと自らを主張するほどに罪深い(神よりも自らを誇り、神に敵対するサタンの性質に満ちた)私達を、その罪をも、神は主イエスの贖いによって赦され、永遠に滅ぶべき私達の命を救われた。
その十字架の代価がなければ、私達は、その罪のゆえに、永遠に滅びなければならない存在でしかなかったことを知るでしょう(ヨブ33:19-30)。
だから、その信仰でさえ神から与えられたものであることを知る。
私の中に生きるキリストが持つ信仰が、内から働く聖霊により働くからこそ、日々信仰が保たれているということを知るでしょう。
【1ペテロ1:3】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。
だから、全てが主から与えられていなければ私達には何もないのです。
この方がいなければ、私達は一秒たりとも生きることができないのです。
私達はそのことを忘れているから、みずからを、誇ることができるという、どこまでも愚かな罪深い生き物なのです。
それを知るためには、私達は主の前に砕かれなければならないかも知れません。
積み重ねた罪が高く、自らを高く誇らせるなら、私達は主の前に砕かれなければならないでしょう。
でなければ、私達はどこまでも自らを高くして神に対立するサタンと同じ運命をたどり、永遠に滅びる存在となるしかない。
けれども、打ち砕かれ、自分自身が本来の塵に過ぎない存在であることを、心砕かれ知った者に主は近づくことができる(罪は神を遠ざけるため)のです。
だから、たましいが悔いくずおれて初めて、主は私達を救うことができるのです。
それでも、主に自らを主張する自分がどこかにいるでしょうか。
主のあわれみにすがりましょう。
主が私を造り変えてくださるように。
2015/01/12(月)
22:26
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