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主の約束を待ち望む
【ヘブル11:8-16】
11:8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
11:9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。
11:10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
11:11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
11:12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
アブラハムは一般に信仰の父と呼ばれるほど、ただひたすらに主を信じ歩み続けた人でした。
「受け継ぐべき地に出て行(ヘブル11:8)」くという彼の召しは何を犠牲としても、何も知らずとも、アブラハムを約束の地へ導きました。
ただ約束だけを持って、ただ主だけを信じ続けて、アブラハムはその召しにすべてをささげて生きたのです。
【使徒行伝7:2-5】
7:2 わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて
7:3 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。
7:4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、
7:5 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。
たどり着いた約束の地において、アブラハムは幕屋に住み寄留者のように生活をし、実際にはまだその地は与えられませんでした。
また、数え切れぬほどの彼の子孫がこの地を受け継ぐことを約束されましたが、彼にはそれらのものは何一つ彼自身の肉体の目に於いては見えませんでした。
しかし、ただ一身に主を信じ続けたことにより、彼の信仰によって見えないものを見せる信仰の(霊の)目は、彼にはるかに大いなるものを見せていたのです。
「ゆるがぬ土台の上に建てられた都(11:10)」。
それは聖書の結論、「新しい天と新しい地(黙示録21:1)」の「聖なる都、新しいエルサレム(黙示録21:2)」であり、「天にあるふるさと(ヘブル11:16)」と言われる、私達が永遠のはじめそこから来て、とこしえの果てまでも主と共に住まう永遠の都。
ただ約束だけを握りしめ、主だけを信じ歩み続ける道のりは、時にあまりに遠く、待ち望むとはいかなることかと、途方に暮れることもあるかも知れません。
それほどに神の計画は壮大で、その受け取る約束をこの地上では見ることさえかなわないかも知れませんが、しかしただ一身に主のみを信じる信仰は、私達をこの永遠の都を望み見るまでに至らせるのです。
そして、そのあまりに壮大で完全、美しく輝き溢れ、いや筆舌しがたいほどの、この地では見ることのできない、地にあるものよりもはるかに良い天にある都を見た者は、この地上でどのように生きたとしても寄留者に過ぎないことを知るのです。
いや、この都を来たらしめる主の計画の一旦は私達の人生の歩みの中にあり、主が私達に与えて下さった壮大な約束は、この都を来たらしめるためのものであることを知るでしょう。
それが待ち望むということなのです。
【黙示録22:20】
22:20 「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
私達をこの永遠の都に招き入れて下さる方が、この地に再び来られるのを待ち望む祈りは、こうして私達の約束の地への歩みの中に、いつも主にささげ続けられるものとなるのです。
それが私達の主への変わることのない祈りなのです。
【黙示録22:1-5】
22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
2015/02/17(火)
15:02
今日の聖書
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はるかな約束を信じて
【創世記】
15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
アブラハムは一人の小さな人でした。
ただ主からの約束だけを握りしめ、全く知らないまだ見ぬ地へ行くことに全てを捧げた(創世記12:1-4)人です。
誰が住み慣れた故郷を離れ、何の理由もわからず、見えない神の約束という、人の目や耳には見えない、不確かに見えるものだけを信じて、はるか離れた地に旅立つことができるでしょう。
そのためにどれほど多くのものを捨て、神だけを信じ、頼りとして生きたでしょうか?
しかし彼は私達と何ら変わりのない普通の人だったのです。
「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか(創世記15:2)」
「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう(創世記15:3)」
この二つのアブラハムの言葉から、彼も一人の弱さを持つ人であることを伺い知ることができるでしょう。
確かにアブラハムは神を信じ、その約束だけを信じて、長い旅に出て、そして約束の地に着きました。
主はアブラハムを祝福され、多くの持ち物も得て、豊かで力のある民になっていきました。
しかし、彼はその約束、大いなる国民どころか、一人の子、跡継ぎすらいませんでした。だから彼にとっては何を持っていても、何も意味もないことに見えたのです。
だからロトが住む、ソドムとゴモラの地が襲われ、ロトとその財産が奪われたのを、アブラハムたちが戦い、全てを取り戻し、ソドムの王から何の報いも受けず、サレムの王メルキゼデクに全ての物の十分の一を捧げ、ただメルキゼデクから祝福を受けたにとどまった。
その報いを主が大きく報いようとされた事でさえも、(このメルキゼデクこそ主イエスの型である人物であり、このささげたささげ物と受けた祝福とがどれほど大きいものであったかということをアブラハムはどれほど知っていたかは不明ですが)彼には意味がなかった。
すべては全く他人のものとなってしまう。
主はそこで、再びアブラハムに大いなる約束を語られました。
ただひたすらに主を信じ、主を愛し生きようとするアブラハムを、主はこの上なく愛したから、主はその思いの如何に大きいかを語られた。
彼の子孫は星の如くに数えられないほど大きな民族となると。
アブラハムのしたことは、ただひたすら一身に主を信じたことでした。
主はこれを彼の義と認められたのです(創世記15:6)。
このとき、アブラハムの目には人としては何も見えていませんでした。
約束の地を全て得たわけでも、ただ一人の子でさえもいませんでした。
しかし、主の約束を、その約束を語られる主を信じたのです。
彼ははるかに見えないものを信仰の目によって見て、信じたのです。
それは主をひたすら信じることによって開かれる信仰の目。
【ヘブル11:1-3】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
この目はアブラハムにのみ与えられているものではありません。
もしもあなたが主をただ一身に信じるのであれば、主が語られる約束をはるかかなたにあろうとも見て、今あるかのように確信することができるのです。
そして、そのことはアブラハムとその子孫との間に証しされているように、必ず成就するのです。
いや、図らずも選民イスラエルを通して世界中に現された救いの壮大な計画は、このアブラハムというごく普通の一人の人の、小さなしかしひたむきな主への信仰によって、現実のものとなっているのです。
【ヘブル】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
「私はある」という方を信じ、この方を求めるのであれば必ず報いて下さると信じる生き方に、主は私達の信仰を見、そしてその信仰を主はこの上なく喜ばれるのです。
だから、私達も生きる全ての道で主を認め、主をただ信じて、ゆだねて、すがって、主と共に歩いてまいりましょう。
はるかに広がる主の栄光の輝きを目指して。
※今日の引用箇所です。
【創世記12:1-4】
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
12:4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。
2015/02/13(金)
08:05
今日の聖書
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いつもキリストを主とする
【1ペテロ3:13-15】
3:13 そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
3:14 しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。
万物を統べ治める方、全てのものの主はイエスキリストです。
全ての主権はこのイエスキリストにあります。
この事実は世界中のどこにおいてでも、いつでも、変わることはありません。
これは全ての歴史を貫き、世界中を貫いて変わらない事実なのです。
それはどの国に住み、誰が王であっても、誰に主権がある(この国日本においては国民に主権がある)と言われていても、その事実は変わりません。
しかし、この世は主権を人に与えます。
これは空中の権を持つ者の支配下(エペソ2:2)の元に与えられた統治と主権であり、この主権を主張する者はこの空中の権を持つ者の支配下に自らがあることを主張している(マタイ4:9)ことになります。
それがこの世と言われているものです。
【サムエル上2:1-10】
2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、あなたのほかには、だれもない、われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、王侯と共にすわらせ、栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、地のはてまでもさばき、王に力を与え、油そそがれた者の力を強くされるであろう」。
【ダニエル4:34,35】
4:34 こうしてその期間が満ちた後、われネブカデネザルは、目をあげて天を仰ぎ見ると、わたしの理性が自分に帰ったので、わたしはいと高き者をほめ、その永遠に生ける者をさんびし、かつあがめた。その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく、
4:35 地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。
主イエスを真の主権者として私達が認めるとき、この神の支配の中に私達は生きています。つまり、神の国の者としてあなたは生きていることになるのです。
「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」るとき、それがあなたの中に成るのです。
私達はあらゆるときに、神の国に生きる者として、神から出て神から遣わされた者として、この地において善を行うよう生かされています。
この世は神に敵対します。だからあなたの善に悪をもって報いられることも多々あるでしょう。
それは私達が世の者でないからであり、世の支配にある者は、私達がどのようであっても、神のものであるから敵対するのです。
【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
その時こそ、「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」ましょう。
そこに主の臨在が満ち始め、そこは神の支配の内に治められ、神の国がその場所に現れます。
あなたが遣わされたその場所はそのようにして神のものとして、神が勝ち取って下さるでしょう。
これは血肉による戦いではありません。
この戦いは王である方、万軍の主である方が戦われる主の戦いなのです。
そして、あなたの主は永遠に全地の主、イエスキリストなのです。
全ての現実は、全ての歴史は、万物は、この主イエスキリストの前に膝をかがめます。
この方に敵対する者は全て粉々に打ち砕かれます。
ただ、主を恐れ。ただ、心の中でキリストを主とあがめましょう。
※今日引用した箇所をまとめておきます。ご参照ください。
【エペソ2:1-2】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
【マタイ4:8-10】
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
2015/02/07(土)
08:11
今日の聖書
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新しい歩み
【エペソ4:20-24】
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
ひとたび私達の内に「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになり、私達の心を照して(2コリント4:6)下さった聖霊は今も私達の内に住まい、私達の心を照らしてキリストにある真理のそのままを私達に直接語り続けて下さいます。
なぜなら、この聖霊こそ我が内に住まうキリストであり、この方こそ真理そのものであり(ヨハネ14:6)、この方の内に神にある知恵と知識のいっさいがあって(コロサイ2:3)、むしろそれ以外に私達は真理を知る術がなく、その聖霊によるからこそ、聖書から真理を知ることができ、語られたメッセージに心よりもさらに深く霊の内からアーメンと言うことができるのです。
そのように霊とまこと(真理、御言葉)によって私達は、この内に与えられた新しい命にふさわしい生き方に導かれるのです。
【ローマ6:4】
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
確かに私達は救われた当初、その救いの喜びの内に、これまで私達自身を捕らえる何かから解放され、何か新しくされたことへの希望を自然に感じていたことと思います。
これは私達がその時は何をも知らずとも、キリストにあって新生した感覚を聖霊が知っていたからでした。
この新生こそ、キリストと共に十字架につけられ私自身が死に、そのことにより古き人を脱ぎ捨て、主と共によみがえって、キリストにあって生きる、新しき人を着ることであり、それは私達の生き方そのものを根底から新しくするものです。
なぜなら私達はこの新しい命にあって生きるならば、私達のこれまでの、どのようにしても「情欲に迷って滅び行(エペソ4:22)」ってしまう生き方ではなく、その根底的性質ごと新たにされ、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」生き方をするようになるからです。(義と聖とは神にしかない性質であり、神の性質そのものです。)
つまり、この新しい命、聖霊なる神の性質にあずかって生きる、私達は聖霊により全く新しい者とされるのです。
【2ペテロ1:3,4】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。
1:4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。
私達自身が元の生活に戻ってしまうのであればそれは何も意味を成しません。
これまで自らの思いで生き、自らの力で、自らの知恵と経験と判断で生き、自らに導かれるまま、自らのために生きる生き方を、そのまま続けるのであればせっかく救われ新しい命にあずかったとしても、古き人としての生活があなたを救われる前の生き方へと導くでしょう。
逆に新しき人を着て生きるとは、この新しい命に導かれて、神に全てをゆだねて、神を信じて、神のために生きる生き方であり、それは私達自身の力や生来持ってものでは到底及ばない、神の命の持つ神の性質にふさわしい生き方をすることなのです。
これまでの生き方は、内に生きる命が完全に変わってしまっているので、全く通用しないのですから、思い切った心の変革が必要です。
だから、「心の深みまで新た(エペソ4:23)」にし、その根底から自らを新しくする歩みに立ちましょう。
新しく生まれた者は古い生き方は不必要なのです。その全てを捨て、これまでの私では全く知らない、新しい生き方を聖霊に導かれて生きていきましょう。
また、これまで古き人としての歩みを続けてきたのであれば、これまでの生活を省み、悔い改めて、十字架の元に再び新しき者とされて、今日から新しき人としての歩みを始めてまいりましょう。
【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
※今日の引用箇所です。ご参照下さい。
【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
【ヨハネ14:6】
14:6 わたしは道であり、真理であり、命である。
【コロサイ2:3】
2:3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
【ヨハネ16:13-14】
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
2015/02/06(金)
12:37
今日の聖書
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神から隠れる
【エレミヤ23:23,24】
23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。
人は自らの思う人生を送りたいというのが生来の性質でしょう。
それを人の幸せと世では言います。
幸せになりますようにとは、自分の思うままの人生を送れますようにというもの。
あなたの思うままの人生を送れますように。
この言葉は一見すると、親切でやさしい思いやりのある言葉に思えるかも知れません。
しかし、聖書において神はこのことこそが、誤り、罪であることをはっきりと表しています。
各々が各々の思うままに良いと思うことをするということは恐ろしいことです。
各々が自分の基準で生きる。それに対立してしまう、その妨げになるような全く逆の価値観を持つ者が現れたらその時はどうするのでしょうか。
互いに正しさを主張するその行き着く先に何が残るでしょうか。
また、誰がそのように多くの者同士が関わり合いながら作られる社会や国と言ったものを正しく裁けるでしょうか。私利私欲のためにしか生きない者達なのに。
【創世記6:5-7】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
【士師記21:25】
21:25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。
【使徒行伝7:51-54】
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
このように人々は自分の思いのままに生きようと繰り返し神に逆らい、過ちをまた罪を繰り返してきました。
神はご自身のご計画(御心)のままに天地万物を造り、私達人間を造りました。
それは私達一人一人各々に於いても変わることなく、一人一人が主のご計画の元、愛をもってこの地に造り出されました。
そこには祝福を注ごうと恵み溢れる道のりが用意され、また各々に、互いに愛し合いまた社会を、時代を、国を、神と共に治めるための壮大な計画が用意されているのですが、人は自分とそのごく近い周りのことしか見えない、非常に近視眼なので、そのため自らの思うままに生きようとするならば、神の思いを知らず、必ず逆らい罪を犯すのです。
【ローマ8:5-9】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。
神によって救われたクリスチャンも全く同様のことが言えます。
救われて新しくされた喜び、この新しい命をご自身の命を差し出して与えてくださった方のために、ささげよう。
神のため、私を救ってくださった救い主イエスキリストのために生きていこう。
救われたばかりの時、救いの喜びに溢れているときには誰しもがそのような思いを少なからず持つものです。
しかし、やがて自分の生活も気になり始める。
神のために生きると自分のために生きる人生がなくなるような気がする。
図らずも人はそのような罠の中、生来の生活に戻っていくのです。
神に背を向け、神から隠れるようにして。
そこに語られているのが今日の御言葉です。
神はそのように生きる私達に今日のように、いやいつも絶え間なく語り続けています。
あなたの姿も、あなたが何をしているかも、あなたが何を言い、何を思っているのかも、私は全て知っている。私に隠れおおせるものはない。
私はここに主を恐れます。
同時にどれほど主が私達を愛しておられるのかを知り、感謝と共にまた主を畏れます。
あなたはどうでしょうか?
自ら思うままに自らの判断と力で生きることが神から喜ばれず、むしろ自らが神から背を向け逆らっていることが、どこか自分の中でわかっているから遠く離れ、神から隠れようとしているのではないでしょうか?
もしもそのようなら、神の本当の思いを誤解してしまったのです。
あなたの神はあなたの言うことを何でも聞く都合のいい神ではないかも知れません。いやむしろそのようなものが神に見えるのであれば、それはイエスを誘惑に来たサタン(マタイ4:1-11)と同じものです。
それに気づかず甘い誘惑に乗り、自分の欲しいものを手にしたなら、その結果はサタンに膝をかがめさせられ(マタイ4:8-10)、それによって得るものは、自らの滅びを刈り取ることになるのです。
そういう意味では、神の計画は飽くまでも神ご自身のためのご計画であり、それは普遍のものですが、同時にあなたのためのものであり、その計画にはあなたへの溢れるほどの愛が含まれているのだと言うことを、あなたは知らないのです。いや、忘れてしまったのです。
でなければ、なぜ神の大いなる計画の中に(その中心に)十字架があったのでしょうか?
あれはあなたのためのものだったのではないでしょうか?
そこにはあなたを愛して止まない神の御心が溢れているのではないでしょうか?
そのように神のご計画は愛溢れ、あなたの思うままではないかも知れませんが、神を愛し神の御心に従い生きる者に、あなたが思うよりもはるかに素晴らしく、また価値があり、恵みと祝福の溢れる人生を与えてくださるでしょう。
だから、今主があなたに語りかけている言葉に耳を傾けてみましょう。
最初の人間アダムとエバが罪を犯した時、神から隠れたあの時から、変わることなく神の愛は、今度は今あなたに注がれ、あなたに語りかけています。
「あなたはどこにいるのか(創世記3:9)」と。
【詩篇139:7-18】
139:7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
139:8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
139:9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
139:10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
139:11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
139:12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。
2015/01/30(金)
18:37
今日の聖書
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生きた励まし
【2テモテ4:5-8】
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
この言葉は、主を一身に見つめ信仰の道を歩んだ先人パウロから、まだ若い牧者テモテに宛てた手紙の言葉です。
信仰者として、伝道者として、いかに歩むべきかを二度の手紙の中に、励まし、勧め、証しし、そしてここで自らの最後を感じて語りかけている言葉です。
それは彼がどのように歩んできたのかを現す言葉でもありました。
【ピリピ3:8-14】
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
パウロのこれまでの歩みは、まさしくキリストを知る歩みであり、自らの生きる日々が十字架の死のさまとひとしくなり、そこから復活に達するための歩みであり(2コリント4:7-11,6:1-10)、主の永遠の計画を一日でも早く来たらせることを願い一身に前へと進む歩み(エペソ1:7-14,ローマ9:1-3,11:11-15)であり、上へ天へと望み見て生きる歩み(コロサイ3:1-4)であり、神の賞与を得るための歩み(1コリント3:11-15,2コリント5:9-10)、そして義の冠を受けるための歩みであったのです。
【1コリント9:24-25】
9:24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
9:25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
この冠こそ主イエスがパウロのために被られたいばらの冠であり、パウロはキリストの御足の跡をたどり歩み続けた(ガラテヤ4.19,ピリピ2:17,コロサイ1:24,2コリント11:22-30)のです。
そして彼は、神から与えられた彼の召し(使徒8:15-16,23:11,26:15-18,27:24)を全て終えたことを、その召しと約束だけを握りしめ日々歩み続けたからこそわかったのです。
【2コリント4:16-18】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
彼が何を見て、何を求めて、何を望み、何を喜び歩んだのか、その全ての歩みを通して、神はテモテを励ますパウロの言葉をもって、今私達を励ましています。
私達もパウロがその全てをささげ主イエスを見て、求めて、望んで、喜んで、愛して歩んだように共に歩みましょう。
そして、私達がこの地上の歩みをいつか終えて天に帰ることを知るとき、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。(2テモテ4:8)」と確信と尽きせぬ喜びと主への賛美をもって、天への凱旋へと旅立ちたいと願います。
またこの小さな私達の信仰の歩みをその生きてきた証しを通して、続く信仰者を励ます者となろうではありませんか。
2015/01/28(水)
19:38
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