天の窓がひらいたら
ふと上を見上げると涙は拭われ
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神の義の現れるとき
【ハバクク2:4】
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
主の眼差しはこの地上の全てのものの上に注がれています。この方の目を盗み、隠れおおせることは何一つありません。
神から背ける今の時代では「主は見ない、ヤコブの神は悟らない(詩篇94:7)」と、悪人と同じ見解を一般のごく普通の人々が持ちます。
闇に隠れ主の目を盗み、自分が何をしているのか神にわかろうはずがないと、必要悪を正当な理由とし、悪いと知りながら罪を重ね、あるいはそれは法律、道徳でさえ罪と現されないものかも知れません。
いや、主の目を意識するどころか、神が存在することすら否定し、届くなら自らが神にさえなろうと考えます。
【エゼキエル28:2】
主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
自らを正しいとし、自らの基準と判断で生きる。自らの賢さがこの正しさを支えていると考え、自らが得た、地位、名誉、お金、それらの自らの行いによって得た結果をもって、自らが正かったからそれを得たと、自らを誇ります。
【エゼキエル28:4-9】
あなたは知恵と悟りとによって富を得、金銀を倉にたくわえた。
あなたは大いなる貿易の知恵によってあなたの富を増し、その富によってあなたの心は高ぶった。
それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、
見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、
あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。
それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
自らが義(正しさ)を主張し、自らの利益のために生きる者達は、やがて互いに騙し合い、食い合い、自らが生きるために奪い合い争い合います。
今抱えている日本の山積みの問題を前に、私達人間の義は何一つ役に立つどころか、人の力を主張するほど滅びにしか至りません。
なぜならそれは、自己利益のために自己の義を主張する私達人間の、根本的な罪が生み出す結果だからです。
しかし、主はこの地を、この滅びを、そのままにされることはありません。
神はこれまで、私達の重ね続けた罪に忍耐されていたに過ぎません。決して主は侮られる方ではありません。
主はご自身の公義により、この地を裁かれます。
この地が不条理と不義と偽りで覆われ、滅びてしまわないために。
主はこの地に、この国に来られるのです。
【詩篇96:13】
主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
私達はこのことを今一度真剣に受け止めなければなりません。主がこの地に来られ、ご自身の義によりこの地を裁くということは、クリスチャンであったとしても、その裁きを免れるということはないのです。
【1ペテロ4:17-18】
さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
主は、私達が何を考え、何を思い、何を言い、何を行ったのか、その全てをご存知です。
そして、それによって、私達は主の裁きを受けることになるのです。
【ヘブル4:13】
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
神はすでにこの国の滅びを幾度も警告されています。
この国にこれまで現れた問題の一つ一つから、私達はその警告を受け取ることができたはずです。
しかし、それに耳を傾けず、自らに都合良く解釈し、自らの生活のことにのみ没頭し、この国が滅ることに真剣に向き合い、とりなして来なかった。
破れ口に命をかけて立ってこなかったことへの責任を問われる時が来ている。それによって、私達は主の前にこれから裁きを受けることとなるでしょう。
【エゼキエル22:23-31】
主の言葉がまたわたしに臨んだ、
「人の子よ、これに言え、あなたは怒りの日に清められず、また雨の降らない地である。
その中の君たちは、獲物を裂くほえるししのような者で、彼らは人々を滅ぼし、宝と尊い物とを取り、そのうちに、やもめの数をふやす。
その祭司たちはわが律法を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。
その中にいる君たちは、獲物を裂くおおかみのようで、血を流し、不正の利を得るために人々を滅ぼす。
その預言者たちは、水しっくいでこれを塗り、偽りの幻を見、彼らに偽りを占い、主が語らないのに『主なる神はこう言われる』と言う。
国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。
わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。
それゆえ、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼし、彼らのおこないを、そのこうべに報いたと、主なる神は言われる」。
主がこの地に来られ、主の義によりこの地が裁かれるとき、主を信じる信仰による神の義しか、私達を生かすものはありません。
クリスチャンである私達がこの神の義をなおざりにして、この世の生き方のように、自己の義によって自分のために生きる道などは存在しないのです。
増してや神の義そのものを知らない者達が、神の裁きの前に滅びを免れることはないのです。
それだけが、この裁きの厳しい境界線です。
今日の御言葉【ハバクク2:4】を真剣に受け止めましょう。
そうすれば、私達が何をすべきかがわかるはずです。
悔い改めて、この国の救いのために、真剣に共にとりなしてまいりましょう。
2014/12/17(水)
12:45
今日の聖書
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朽ちないものを見続ける
【1ペテロ1:23-25】
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
私達が「朽ちる種からではなく、朽ちない種(1ペテロ1:23)」である神の「生ける御言(1ペテロ1:23)」によって新たに生まれたのは、朽ちることのない神の御国、神の「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ(1ペテロ1:4)」ためです。
【1ペテロ1:3-5】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
朽ちるもの、やがてはかなく消え去るものによっては、朽ちないものを受け継ぐことはできません。永遠に変わることのない、朽ちないものによらなければ、朽ちないものを受け継ぐことはできないのです。
朽ちることのない永遠の命、受け継ぐべき神の国、そして父の相続と言われる天の資産。
私達が新たに生まれたのは、この朽ちない絶大なる価値を持つ宝を受け取るためなのです。
そして、そのことが完成するのは「終りの時に啓示さるべき救にあずかる」時、私達の「からだのあがなわれ(ローマ8:23)」る時に、成就するのです。それは私達がよみがえりの栄光のからだを受ける時です。
【1コリント15:50-55】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
多くの人達がこの朽ちないもののために生きるのではなく、朽ちるもののために生きています。
【ヨハネ6:27】
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。
この地上で生きるために、朽ちる食べ物を得ようとして生きる。しかしこのことは決して朽ちないものを受け継ぐための生き方ではありません。むしろ、朽ちるものに目を奪われ、朽ちないものを見失い、受け継ぐべき大いなるものを失うための歩みであるということができます。
なぜなら、その心はすでに終わりの日の希望から離れ、神の完全なる救いによって、朽ちないものを受け取るという、大いなる喜びから、興味を失ってしまっているからです。
また、神の驚くべき計画に無感動となり、「自分の欲情のままに生活し、(2ペテロ3:3)」神の計画を「あざける者(2ペテロ3:3)」となり、また人々にその誤った常識を吹聴する者とさえなるからです。
【2ペテロ3:3,4】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
しかし私達を新しく生まれさせた「朽ちることのない」神の御言は、朽ちるもの全てが火に焼き尽くされる裁きの日を明確に語り、いやむしろ「今の天と地とは、同じ御言によって保存され(2ペテロ3:7)」、裁きの日が神のあわれみにより待たれているのです。
【1ペテロ3:5-7】
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
だからこの神のあわれみの時を、朽ちるものに心奪われ無駄にすることがあってはなりません。私達の歩みは刻一刻この終わりの時に向かっており、クリスチャンの見るべき視点も、生きる目的もこのためにあるのです。
【1ペテロ3:8-13】
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
多くの教会が、そして兄弟姉妹が朽ちるものを中心に、その視点から全てを見つめ、信仰生活を歩むことを、常識としているように思われます。
しかし、これらは私達が与えられているもののごく一部分であり、添えて与えられているもので、私達の受け取るべき絶大なる資産そのものではありません。
【マタイ6:31-33】
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
クリスチャンの本当の目的に目を覚ましましょう。
神が私達に何を与え、どのように歩むことを望んでおられるのか。
神は溢れるほど私達を愛すればこそ、
その計画は滅びではなく、言葉に言い尽くせない大いなる喜びと、輝く栄光の歩みなのです。
ですから、あなたに伺います。
あなたは、まだ朽ちるものを見続けて歩みますか?
それとも、朽ちないものを見続けて歩みますか?
2014/12/13(土)
07:54
今日の聖書
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主の救いを見よ
【出エジプト14:13,14】
モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
主が私達のために用意している計画は、私達の思考では到底及ばないような驚くべきものばかりです。
それは私達のために主が用意された圧倒的な愛に基づく計画であり、同時に主の圧倒的な栄光が現されるためのものです。
言い換えれば、主がご自身の愛する者のためにどれほど驚くべき御業をなされるのか、その絶大な栄光を全地に、そして「天上にあるもろもろの支配や権威(エペソ3:10)」(サタン)に、また「この世ばかりでなく来るべき世々(エペソ1:21,2:7)」に至るまで、見せつけるために用意された計画なのです。
そのような壮大な計画の前に、その計画がどこから来てどこへ行くのか、つまりはその計画が用意された理由や、その計画がどのような結果になるのか、あまりに主の思いが高すぎて私達には到底理解することができません。
ですから、主の大いなる御業が現されるときその直前には、私達はその目の前に迫る状況に死を予感するほど、私達の力ではどうにもできない現実が迫って来ることがあります。
それはこれから現される主の御業が圧倒的だからこそ、あまりに非力で何もできない私達には、迫る現実がいかに私達に何もできないかしか理解できないのです。
ここでイスラエルが主に叫んだように主への不信に、心を奪われてはなりません。
そこで出て来る言葉は主をのろう言葉でしかなく、その言葉には何一つ希望が存在しないからです。
【出エジプト14:10-12】
パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、
かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。
わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。
そのときこそ、心静め主の御声に耳を傾けましょう。現実を見る目を閉じ、信仰の目を開いて、神に用意された真の状況を見る必要があります。
主は何をご用意され、私達がどのようにあることを、何をすることを望んでおられるのか。
これまで私達にあらゆる良きことをしてくださった主に、この時こそ深い信頼を寄せ、心静め主に祈り尋ねるのです。
そう、そのとき今日の御言葉のように、主は語られるでしょう。
「かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。(出エジプト14:13)」
あなたはそこに、主の救いを見るのです。それは永久に、二度とそこに死を見ることがないために、主ご自身が戦われるのを見るでしょう。
主は永遠にあなたの勝利者です。
あなたが無力なときこそ、あなたの全てを主にゆだねましょう。
主がその全てに勝利を現してくださいますから。
2014/12/12(金)
13:17
今日の聖書
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自信という名の高慢
【2サムエル24:18】
その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。
人はいつまで経っても自分の力に頼り、誇ります。
特に、自分に経験が豊かになり、自信がつき、自分の力でいろいろなことができるようになると、そのような人間の本質が見え隠れします。
しかし、これは神の前に何の意味もないことです。
全能なる方、絶大な力を持つ神の前にそれは塵のようなものに過ぎず、私達の力は自分の「髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」微弱な存在です。
だからこそ、私達が神により頼まずに生きることのできる日など、ただの一日、いや一刻一秒もないでしょう。
しかし、そうであるにも関わらず、その事実を自己過信のうちに忘れ、自らの力を頼り、誇る者は、神により頼む存在どころか、知らずにいても、神を必要とせず、自力で生き、やがて神を退け、神に対抗する存在となるのです。
これは潜在的でありながら、全ての人が持っている罪の根幹に関わる、人間の本質と言うことができます。
「 神のように(創世記3:5)」なる。神無しで「わたしは有る」という存在に、人はなりたいのです。そしてそれが人の最初の罪です。
今日の箇所ではそれに続く聖書の遡る箇所に
【2サムエル24:1】
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。
とあります。そこから推察されることは、イスラエルの民も同様に自らの力を誇った。そして、また同様にダビデも自らを誇り、その結果として自らの力を誇るため民の人数を数えようとしたのでしょう。
このダビデの強制的な人口調査はその罪のゆえに神を怒らせました。
ダビデは自ら気づき神の前に罪を悔いますが、裁きはイスラエルの民に及びます。ことは「七万人(歴代志24:15)」の人々が死ぬほどの大惨事に至りました。
この時、ダビデが主の前に悔いても、この人の(本質的)罪に対する贖いの命の代価が、まだ支払われていなかったのです。
そこで、今日の箇所にあるように、主は罪の贖いについて語られたのです。
真の悔い改めは十字架の贖いなしに存在することはありません。
自らに高ぶる私達は、肝心なものが何一つ見えず、しかしその目には自らの栄光(神から奪った栄光)しか目に入らず、とてつもないかけ違いをしでかします。
それは信仰経験が長く、豊かになればなるほど、その危険があるのです。
私達はしっかり自分で何でもできる、『できる信仰者』ではなく、神がいなければ『何もできない信仰者』であるべきなのです。
これほど高ぶった私達に、だから自らを最も卑しめられ、侮られ、痛めつけられ、神にも見捨てられ、永遠に裁かれた、最も低き者となり十字架にかけられた、主イエスの命の代価が必要なのです。
私達はこの十字架の前に、心砕かれ、低められ、悔い崩おれて、悔い改めなければ、サタンへと自らを変え、滅びへと自らを進めていく道から逃れることはできないのです。
しかし、この十字架に自らを低める神への謙遜の道が開かれる時、そこにこそ自らが果たすべき自らの使命、神に与えられた召し、自らの生きる道が見えて来るのです。
【1歴代志21:27,28-22:1,2】
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
[中略]
22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。・・・
ダビデは神の家を建てる悲願を抱えていましたが、それはその子ソロモンに於いて成就することとして、神から約束を与えられていました。
けれども、ダビデの心はこの主の家のために何が自分自身にできるのか。何を主にこの地上でささげることができるのかということでいっぱいだったのでしょう(1歴代志28,29章より)。
だからこそ、この贖いの代価をささげるアラウナ(オルナン)の祭壇を建てたとき、この場所が「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである(22:1)」と、神殿を建てるのに最もふさしい場所であることがわかったのです。
驚くべきことに、父なる神が私達に御子をさえ惜しまずに与え贖いの供え物とされる十字架の型となる出来事、アブラハムがイサクを主にささげようとしたモリヤの山はこの場所であったのです。
【2歴代志3:1】
ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。
ここに真の贖いの恵みをダビデは受け取ったことがわかると思います。
私達の歩みは十字架の御足の跡をたどることであり、しかしそれは決して自らを誇り自らを喜ばせる道ではありません。しかし、そこに溢れる十字架の愛と恵みを受け取り、主と共にこの地では低められるけれど、天に於いては高きにまで引き上げられる、栄光の道を歩むことなのです。
【ピリピ2:6-11】
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
今はごくわずか見えても、主は全てをご存じです。自らの高慢を省み、主の十字架の前に、この恐ろしき罪を悔い改め、溢るる神の恵みを今受け取りましょう。
2014/12/11(木)
18:03
今日の聖書
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命の川の音
【エゼキエル47:8-10】
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
神の命が川となって、流れ溢れる出る時が来ました。
かつて、サマリアの女に主イエスは言われました。
【ヨハネ4:10】
イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
また、仮庵の祭の終わりの大事な日に主イエスは叫ばれました。
【ヨハネ7:37-39】
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
この2つのことは同じことを指し、今の恵みの時代に注がれた私達の内の聖霊について語られています。そして驚くべきことにこの奇跡は、今あなたの中に成就しているのです。
このことをあなたは信じ実感しておられるでしょうか?
この「生ける水」は私達の命の渇きを永遠に潤し、そればかりか私達の腹から川々(文語訳)となって溢れ出るものです。
そして「この川は、神と小羊との御座から出て、(黙示録22:1,2)」、私達の内側から溢れ出るものであり、それは私達クリスチャンの一人一人が個々の中で完結するものではなく、一度私達の中から勢いを持って溢れ出た川は、合わさってさらに一つの川となり勢いを増して行くのです(エゼキエル47:1-6)。
「死ぬべきからだをも、生か(ローマ8:11)」す絶大な力をもって、溢れる「この川の流れる所では、すべてのものが生き(エゼキエル47:9)」るのです。
教会から溢れ出る、よみがえりの命の絶大なる力をもって流れる、一つの川の流れは、やがて全地に満ちるでしょう。
「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望(2ペテロ3:9)」む主の御心がそれを成し遂げる。
今滅びに向かってひた走るこの国を生かすために、主はこのことをご自身の熱心をもって成し遂げるでしょう。
これは夢幻の話でも、偽りでもありません。現実に起こることです。
なぜなら、この国の中に有り余る問題は私達の危機を感じる感覚を麻痺させる程に多く、すでに未来を支える若者達の唇から将来について語ることができないほどの無力感や絶望感を与えています。
「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)」とあるように、この滅びが見えるほどに現実化したこの国だからこそ、主の恵みは溢れ、その熱心がこの国を生かすのです。
主はこの国を神の元に立ち返らせようと、主ご自身の命の川で溢れさせ、滅ぶべき者を「この川の流れる所では、すべてのものが生き」るようにされるでしょう。
この川の溢れる音が(信仰によってのみ聞こえる霊的な耳をもって、)あなたに聞こえるでしょうか?
あなたの内から溢れようとするこの川の流れを、あなたはとどめていないでしょうか?
【ルカ18:8】
しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。
不信仰を語り合い、現実に振り回されことはもう終わりにしましょう。
主の御座を見上げる時、そこから命の川はあなたに溢れ始めます。
主の恵みがまずあなたから、豊かに溢れますように。
2014/12/06(土)
11:57
今日の聖書
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あなたへの良き知らせ
【2列王記25:27-30】
25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。
私達が救われクリスチャンになったということは本当はすごいことです。
しかし、時々私達はそのことを忘れさせられいつの間にか意気消沈させられ、希望もなく、未来も見えず、あるいは今日と変わらない明日を求めるだけで、やっとのような信仰生活を歩む日もあるでしょう。
でも、騙されてはいけません。それはあなたが主から与えられた救いの絶大な意味を見えないようにされ、その喜びを奪おうとされているだけです。
だから、もう一度そこに立ち返って、主の驚くべき御業がいかに恵みに富んだものなのかを見つめ返したいと思うのです。
もしも、救いにより私達が与えられた立場が本当にわかったら、あなたはその中に主にある永遠の深い安らぎ、平安を得ることでしょう。
今日のこの箇所には救われたということがどのようなことを意味するのか、その型となることが語られています。
【ルカ4:17-21】
すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
主イエスご自身がイザヤの預言からこのように語られたように、これが人々に与えられている良い知らせ、福音の本質であり、主が来られた時からあなたの中に成就するもの、主を受け入れ救われた時からあなたはその恵みの中に入れたのです。
「囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(18節)」とあるように私達はそれまで罪捕らえられ、永遠の滅びと受けるべき、死刑囚でした。
その罪の暗闇に神を見ることもゆるされず光はなく、罪の奴隷として売り渡されたもの、この罪の前に成す術のない自由のないものでした。
それは、エホヤキンに現された姿も同様です。
しかし、主はそこから私達を解放しました。ご自身の命を十字架に差し出し、この死刑囚という立場から私達を贖い出して、その「獄屋から出して(27節)」くださったのです。
そして罪に打ちひしがれ傷ついた私達を、主ご自身がいやし、慰め(28節)てくださいました。
私達は「獄屋(囚人)の服を脱ぎ(29節)」、キリストを着て(ガラテヤ3:27)、さらに驚くべきことに、この地上のどの王よりも高い神の王国の王族としての地位を与えられたのです(28節)。
私達は、一生の間、常に王なるキリストの前で、やがて朽ちるような食物でなく永遠のいのちを与える「神の口から出る一つ一つの言で生きるもの(マタイ4:4)」として食事し(29節)、主との深い交わりを与えられています。
もう私達は何を食べようか何を着ようかと思い悩む必要はありません(マタイ6:31,32)。主ご自身がその全ての必要をご存じで、たまにではなく、また一時的、あるいは気まぐれでもなく、「一生の間、たえず日々の分を王(なるキリスト)から賜わって、(30節)」生きる者とされたのです。
私達に与えられていないものは何一つありません。
エデンの園で神との間に与えられていたもの、その全てが神との和解により主との愛と永遠におけるいのちの交わりのうちに、回復した。
それが救われた私達の本来の姿です。これが私達の希望です。
そしてこの恵みは主との間に永遠に与えられているものなのです。もうここから私達を引き離すものなど存在していないのです(ローマ8:35-39)。
さあ、元気を出してください。
いつまでも偽りに捕らわれずに、本来のあなたの姿を見つめてください。
そしてあなたの主に与えられている今日を喜び、主をほめたたえつつ、一日を過ごしてまいりましょう。
今日もあなたの上に、主の恵みと愛と交わりがとこしえにとどまりますように。
2014/12/03(水)
13:01
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