天の窓がひらいたら
ふと上を見上げると涙は拭われ
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永遠の救いの喜び
【イザヤ25:6-9】
25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
25:7 また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
25:9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。
私達に与えられた救いという事実は永遠です。そしてすでに完成されたものです。
確かにまだ体こそ贖なわれず(ローマ8:23、2コリント5:1-9)、この地においてはうめき叫んでいますが、その内には永遠の命があり、霊において私達はすでに永遠の存在とされています。
この地にある全てのものは過ぎゆき消えて行くものですが、私達自身は永遠の存在とされているのです。
だから永遠の神の御国に生きている、天に国籍(ピリピ3:20)を持つ、天から来た存在(エペソ2:4-7)とされているのです。
【イザヤ25:8】
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。
【黙示録21:3-5】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。
まさに死は滅ぼされ、涙はぬぐわれる。それは先のものが過ぎ去り、すべてが新しくなったからです。
私達はここに神が奥義としてこの世の終わり、その後に完成される新しい天と地、永遠の都新しいエルサレム(「この山」イザヤ25:6,7)として、キリストの花嫁として、私達教会が花婿キリストと結婚し一つとなり、永遠に共に住まう、天国が完成する姿の中に表される私達の姿を見ることができるのです。
それは永遠の先にあるものではなく、救われたその日から私達に与えられたもの。
驚くべきことに永遠は私達の中にすでに新しい命と共に入り込み、この命こそ、天から来て天の国籍を私達に与え、永遠の先にある完成されたこの天国の奥義に、今私達を突入させるものなのです。
【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
この絶大なる恵み、完成された救いこそ、人の力では決して与えられないものであるということがわかるでしょう。
だからこそ、この救いは私達「自身から出たものではなく、神の賜物である(エペソ2:8)」としか言えないものなのです。
これがあなたに与えられた救いです。
どうでしょうか?
すでに私達の理解すらはるかに超えるこの恵みは、聖霊によりおおいが取り除かれ(イザヤ25:7、2コリント3:12-18)初めてわかるのですが、つまりは私達が神に祈り、賛美し、礼拝をささげるとき、この礼拝は天での礼拝にまで引き上げられ、一つとされ、全ての時間を超えて永遠の中に私達は入れられ、時間を忘れて主と交わるのです。
いつまでも祈りがとどまらないこともあれば、一瞬の間に時が止まったように永遠の礼拝をささげることもある。
私達は有限の時間の流れの中にいながら永遠に生き、地上に居ながら天の御国に生きている。
このような驚くべきことを日常の中に持つ者が、私達以外に世界中のいったいどこにいるでしょうか。
ここに私達が救いを受けたときに、如何に絶大なものを受け取ったのかということがわかるのです。
そうです。あなたは主に救われたあの日から、一日たりともこの驚くべき恵みから出されたことはないのです。
この中であなたの当たり前に見えていた一日は、あなたを通して地に天が入り込むように生きていたのです。
この中であなたは今年も、主の恵みの内に一年を過ごして来たのです。
救いの喜びを忘れていませんか?
ですから、今静かに目を閉じ、主に自らの全てをささげてみて下さい。
この世の喧噪を離れ、心にある全てのことを横に置いて、この救いを自らの命の代価によって与えて下さった、愛する主イエスにのみ心を向けて。
ただ静かに、主の安息の内に。
そう、そこに永遠の天の御国は溢れているのです。
【ローマ12:1,2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
【ピリピ3:20,21】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
【エペソ2:4-7】。
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
【2コリント3:12-18】
3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
2014/12/31(水)
11:02
今日の聖書
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主が居られる
【創世記】
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。
【マルコ6:48-51】
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
自分の力ではどうにもできない現実を前に、心静めて、もう一度、頼るべき方は誰なのかを思い出してください。
そこにこそ主が居られる。
私達が寄る辺ないときこそ、主がそばに居られ、
私達の力が尽きるときこそ、主の御業が現れるときなのです。
そこに十字架にかかられた主イエスが、天から地にかけられた梯子となられ、居られるのがわかるでしょう。
それは天が開かれ、天と地がつながり、私の地上のすべての悩みを超えて、私が主の御側に引き上げられ、天の御座のすぐ近く、主と直接天の御国にある交わりに入れられる、天の祝福が地上に溢れる瞬間。
【創世記28:12】
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
【ヨハネ1:51】
1:51 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
そして、私の死につける全てのものが、主の十字架にあって、よみがえりに、勝利に飲み込まれる瞬間。
【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
そうです。そこに、よみがえりの主が溢れる愛をもって両手を広げ、あなたのすぐそばで、あなたを恵もうと、待ちかまえて居られるのを、あなたは知るでしょう。
だから、現実に目を閉じ、いや主への信仰によって目を開き、霊の目をさましてください。
ここからが主の働かれるとき、主との至高の交わりを知るときです。
2014/12/30(火)
14:25
今日の聖書
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天地に賛美が響く時
【ルカ2:13,14】
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
羊飼いに御使が現れ、救い主の誕生が語られたとき、天の御国が力をもって地上に現れました。
地上に天の栄光が押し入って来ています。
まさにこの後に語られる「悔い改めよ、天国は近づいた(ルカ3:2)」という言葉の通りのことがここに始まりました。
このことを「地の上では、み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して、主は成そうとされました。
主の御心に添う、小さな者達を通して。
【ルカ10:21,22】
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
10:22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。
この御心にかなう者達が幼な子と呼ばれる、知恵のない者や賢くない者達であったことは何と幸いなことでしょう。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない(ルカ18:16,17)」とイエスは幼な子らを呼び寄せて言われ、親がいなければ何もできない無力で最も小さな幼な子を、神の国の住人に最もふさわしい者としてご自身の元に招かれました。
また、主ご自身が「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」と語られ、決してこの世での豊かな者に神の国を与えようと語っていないのもあわれみの深い主の御心です。
【マタイ21:31,32】
21:31 イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
そして、ここでは罪深く自らの罪をよく知る取税人や遊女が神の国に真っ先に入ることが語られ、「祭司長たちや民の長老たち(マタイ21:23)」よりも先に、それまで神の国に遠いとされ、さげすまれていた者達が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。[中略]わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マタイ9:12,13)」と語られ、主はご自身からそのような者達に近づかれ親しく交わられ、彼らは神の国に入れられていったのです。
まさに天(の御国)にある神の栄光をもって「地の上」に、「み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して天にある神の平和(シャローム)があるように、神は願われました。
実に神の御業は麗しく、人の知恵によってはこの神の国に至らず、この世が与える豊かさも、人の持つ一切の力も、自らの正しさも、神の国に入る妨げにしかならない。
それらを全く持たないおよそ人の目に神の国にふさわしいと思えぬ者達に神の国は開かれたのです。
【ヨハネ3:16】
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
今私達はこのような恵みの中にいます。
私達はただ主の一方的なあわれみにより、主ご自身が地に降り、ご自身の命を私達の贖いのためにささげて下さった計り知れない愛により、天の御座にまで引き上げられ、今この天の賛美の中に加えられているのです。
それはこの地に、私達のような神の国におよそふさわしくない者達が、ただ神のあわれみのみによって神の国に入れられ、それによって、地に神の平和(シャローム)が現れるためだったのです。
【エペソ2:4-7】
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
何という人知を超えた、言葉に尽くせない恵みでしょうか。
これを喜ばずにいられるでしょうか。
これほどの御業を誰が想像し、理解することができるでしょうか。
どのようにこの感謝を神にささげたらいいのでしょうか。
だからこそ、天も地もこの素晴らしき方、神の前に永遠の賛美を捧げざるを得ないのです。
そして今日こそ、その神の御子が私達に与えられたことを感謝し賛美するにふさわしい日、クリスマスです。
だから、この恵みの日を神への感謝と賛美の一日としましょう。
さあ、共に永遠にとどまることのない神への礼拝をささげましょう。
【黙示録4:10-11,5:9-14】
4:10 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
4:11 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
[中略]
5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
5:14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。
2014/12/25(木)
12:35
今日の聖書
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拒絶された救い主
【ルカ2:6,7】
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
救い主の存在は人を必ず二つに分けてしまいます。
彼を受け入れる者と、彼を拒絶する者。
彼の存在はその生まれたときから、このことをはっきりとさせていました。
人は彼が生まれてくるのを拒絶したのです。
拒絶された救い主それがイエスキリストです。
【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
私達が私達自身の力で、光を持つのであれば、彼の存在は迷惑なものとなるでしょう。
彼自身がまことの光であり、私達が輝く、あるいは作り出す光は、この光の前では何の意味もないもの。まことの光の圧倒的な輝きの前では、私達の光は闇に等しく、そこに命はありません。
【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
命の光はそれを受け入れた者には命になるけれど、自らの光を保ちたい者には、まことの光は、自らの光がやみと変わりないことを現してしまう。
だから、自らに光を見出そうとする者は、まことの光を拒絶するしかできないのです。
【ヨハネ1:5】
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
「輝く自分になる」「光ある未来へ」そんなキャッチコピーが町には溢れ、クリスマスの街角はもう12月の始めから輝きっぱなしですが、この命のない偽りの光こそまことの光を拒絶するものです。それは私達でさえも。
自らの力で作り出した希望。毎日の生活を安定して与える豊かさ。それを支える金銀の輝き。光でつながる情報化社会に知識は溢れ、まるで一人一人が賢者のよう。
この豊かで平和に見える光溢れる生活を乱されたくない、神でさえも。
人の心は光ではなく闇を好んでいるに過ぎません。
【マタイ2:1-3,16】
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
[中略]
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
【ヨハネ】
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
しかし、暗き地を歩む者、神にしか頼るものがない者には、光が照ったのです。
それはまことの光を拒絶せず、いや拒絶しえない者だからこそ、その光を受け入れ、命を受けたのです。
【マタイ4:16】
4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
さて、今あなたはどうでしょうか?
これはかつて神を知る民イスラエルに救い主が与えられたのと同様に今クリスチャンである私達に問われています。
救い主イエスキリストを拒絶しないなら幸いです。
この方にのみ希望を持ち、この方にのみ寄りすがり、この方のみを光とし、この方のみを必要としこの方を求める者、この方を受け入れる者は幸いです。
命の光を得るでしょう。
そして、そのような者はいつでも飼い葉桶に眠る救い主に出会えることでしょう。人が拒絶し出会えなかった、羊飼いや博士達のように小さな寄る辺ない者にのみ出会うことのゆるされた小さな救い主に。
2014/12/24(水)
21:59
今日の聖書
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主と心一つとする信仰
【マタイ12:1-8】
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。
「安息日の主」はイエスキリストです。
ですから礼拝の中心、礼拝の主はイエスキリストです。同様に教会の主はイエスキリストです。
全ての信仰の中心も、そして私達の全ての全てに於いて、私達の主はイエスキリストです。
それは当たり前のことのようですが、この主イエスキリストは今生きておられる主なのであり、この方は私達の作り上げた信仰の形式や、蓄積した知識や経験、つまりは宗教としてのキリスト教の中に、生きている方ではありません。
私達の狭い知識や経験、その中で狭められた人の心の中に、命を失い、閉じこめられる方ではありません。
今まさに全世界の主権者として、主として生きておられる方です。
そして、この方への愛と、この方から向けられている多くの隣人への愛。律法の中心はここに集約されています。
【マタイ22:37-40】
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
このように今生きておられる主との「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」によって、私達の毎日は生きたものとなるのです。これが、御霊に導かれ(ガラテヤ5:16-18)、キリストの律法(1コリント9:21)を生きる私達の歩みです。
そこには主との愛による命の交わりが存在しています。
これが人間の作り上げた命の失われた信仰と、主との愛によって生きて働く信仰の違いです。
この違いを主は 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない(マタイ12:7)』と語っています。
いけにえをささげることは当時の礼拝においても中心的内容であり、それが信仰の中心であったということができます。
しかしそれはここではただ形式だけのものとなっていることがわかります。
なぜなら、主のあわれみ、主の愛が今どこに注がれているのかという、主との愛に基づく交わり、「愛によって働く信仰」が消え失せていたからです。
このパリサイ人は主の愛を知らず、形式だけの命のない(実のない)、神の心から離れた信仰により、律法の解釈とそれを厳守することだけに心奪われていました。
だから、罪のない者(空腹で困っていた弟子達)への主のあわれみを理解できず、彼らを罪にとがめたのです。
【マタイ15:7-9】
15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
そしてそのことは安息日の主であるイエスキリストが目の前にいたのに、つまりは「人の子」として来る預言され待ち望んできた救い主(ダニエル7:13)が目の前に生きて立たれ、自分と語っているのに、気づかないという致命的なミスを犯してしまうのです。
このことは今の私達にも言えることです。
私達は今生きておられる主に本当に気づいているでしょうか?
この方との愛の交わりの中に本当に生きているでしょうか?
本当に今生きておられるイエスキリストをあなたの人生の全てにおける主として、受け入れているでしょうか?
誰かの信仰、誰かの知恵、教会の信仰、信仰者の常識と言われているもの、それらに心奪われて、今生きておられる主との信仰によって生きることを退けてはいないでしょうか?
今神は何をあわれみ、何に愛を注ごうとされているのか、もう一度、生きておられる主との関係の中で、知る必要があるのではないでしょうか?
主よ。あなたは何を思い、何を望んでおられますか?
私がどのように生きることをあなたは喜ばれますか?
愛する主よ。あなたの心と私の心を一つとしてください。あなたの願いこそが私の生きるべき道なのですから。
【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
2014/12/24(水)
21:56
今日の聖書
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進むべき時
【申命記1:6-8】
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、
身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。
見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。
主は私達のとりなしを、流した汗を、涙を、決して見過ごしにされる方ではありません。
誰かが罪のために滅びるのを、私達は黙しておられましょうか。
主が悲しんでおられるのに、それを無視して自らを喜ばすことなどできましょうか。
そのような思いで涙を持って主に、とりなし祈るならば、主はその滅びから人々を救うために、どれほどの代価を払っても、御業を現されることでしょう。
神の御子を贖いの供え物としてささげられた程に、その愛は深く、それは天地を動かしてでも成し遂げられる。
主の切なる願いが、主の熱情がそこにあるのです。
ですから、主の心と、思いを一つに重ねとりなす祈りを、今まで主はどれほど待ち望んで来られ、またその祈りが私達の唇から語り出されることをどれほど喜ばれることでしょう。
ダニエルが、罪を犯し続けたイスラエルのために、切なる思いでささげたとりなしの祈りに(ダニエル9:1-19)主は答えられ(ダニエル9:22,23)、その後の主の大いなる計画を、つまりは秘めたる主の胸の内を親しく語られ示されたしたように。
またネヘミヤの涙の祈り(ネヘミヤ1章)に、主が答えられ、火に焼かれたまま荒廃し荒れ地となった、エルサレムの再建を、ネヘミヤに託されたように。
主は必ず私達のとりなしの祈りに、答えられるのです。
いやですから今日、神が御言葉をもって、私達にこのように語ってくださっていることはとても大きなことです。
主はその御言葉の通り、私達の目の前に広がる地、この国を、この地を、私達に与えてくださると語られているのです。
もちろん、この国を、この地を、私達に与えてくださるとは、この旧約聖書の時代のように、物理的な、目に見えるような形での意味で語られているわけではありません。
【使徒26:17,18】
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、
それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。
それは霊的な意味で語られているものであり、悪魔の支配から神の支配へ、やみから光へ、永遠の死と滅びから命へと、多くの人々が救われることを意味しており、その救いへと導く大きな役割を私達に担わせてくださるということを意味しているのです。
そして、私達一人一人が、この国を、この地を、霊的な意味において、主の統治の内に治めるための一翼を担うということを言われているのです。
つまり、この国のリバイバル、本当にこの国が神に立ち返り、死とのろいから解放され、命に溢れる国となる、その一端を私達は担わせていただく、そのような恐れ多い特権に預からせていただけるということを、今主は語られているのです。
そして、さらに今主は、もう同じ所にとどまる時ではないと、進むべき時が来たと語られています。
確かにこの国の宣教はこれまで遅々として進まず、長い年月膠着状態のまま、久しく同じ所にとどまり、いやすでにこの国がリバイバルし神に立ち返ることなど、夢のように思えているかも知れません。
むしろ、このままで平穏な教会生活を細々とでも送ることに、安住さえ感じていたかも知れません。
だからこそ、この国が今大きく変わろうとし、その選択が日々刻一刻と滅びに向かっているこの時に、目を覚ますよう私達は警告され、そのために悔い改め、とりなしを祈ったのです。
そして、その祈りを主は聞かれたのです。
もう時は動いています。
立ち上がって、主と共に進んでいきましょう。
【ヨハネ4:35-38】
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。
2014/12/19(金)
13:52
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