天の窓がひらいたら
ふと上を見上げると涙は拭われ
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神から隠れる
【エレミヤ23:23,24】
23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。
人は自らの思う人生を送りたいというのが生来の性質でしょう。
それを人の幸せと世では言います。
幸せになりますようにとは、自分の思うままの人生を送れますようにというもの。
あなたの思うままの人生を送れますように。
この言葉は一見すると、親切でやさしい思いやりのある言葉に思えるかも知れません。
しかし、聖書において神はこのことこそが、誤り、罪であることをはっきりと表しています。
各々が各々の思うままに良いと思うことをするということは恐ろしいことです。
各々が自分の基準で生きる。それに対立してしまう、その妨げになるような全く逆の価値観を持つ者が現れたらその時はどうするのでしょうか。
互いに正しさを主張するその行き着く先に何が残るでしょうか。
また、誰がそのように多くの者同士が関わり合いながら作られる社会や国と言ったものを正しく裁けるでしょうか。私利私欲のためにしか生きない者達なのに。
【創世記6:5-7】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
【士師記21:25】
21:25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。
【使徒行伝7:51-54】
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
このように人々は自分の思いのままに生きようと繰り返し神に逆らい、過ちをまた罪を繰り返してきました。
神はご自身のご計画(御心)のままに天地万物を造り、私達人間を造りました。
それは私達一人一人各々に於いても変わることなく、一人一人が主のご計画の元、愛をもってこの地に造り出されました。
そこには祝福を注ごうと恵み溢れる道のりが用意され、また各々に、互いに愛し合いまた社会を、時代を、国を、神と共に治めるための壮大な計画が用意されているのですが、人は自分とそのごく近い周りのことしか見えない、非常に近視眼なので、そのため自らの思うままに生きようとするならば、神の思いを知らず、必ず逆らい罪を犯すのです。
【ローマ8:5-9】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。
神によって救われたクリスチャンも全く同様のことが言えます。
救われて新しくされた喜び、この新しい命をご自身の命を差し出して与えてくださった方のために、ささげよう。
神のため、私を救ってくださった救い主イエスキリストのために生きていこう。
救われたばかりの時、救いの喜びに溢れているときには誰しもがそのような思いを少なからず持つものです。
しかし、やがて自分の生活も気になり始める。
神のために生きると自分のために生きる人生がなくなるような気がする。
図らずも人はそのような罠の中、生来の生活に戻っていくのです。
神に背を向け、神から隠れるようにして。
そこに語られているのが今日の御言葉です。
神はそのように生きる私達に今日のように、いやいつも絶え間なく語り続けています。
あなたの姿も、あなたが何をしているかも、あなたが何を言い、何を思っているのかも、私は全て知っている。私に隠れおおせるものはない。
私はここに主を恐れます。
同時にどれほど主が私達を愛しておられるのかを知り、感謝と共にまた主を畏れます。
あなたはどうでしょうか?
自ら思うままに自らの判断と力で生きることが神から喜ばれず、むしろ自らが神から背を向け逆らっていることが、どこか自分の中でわかっているから遠く離れ、神から隠れようとしているのではないでしょうか?
もしもそのようなら、神の本当の思いを誤解してしまったのです。
あなたの神はあなたの言うことを何でも聞く都合のいい神ではないかも知れません。いやむしろそのようなものが神に見えるのであれば、それはイエスを誘惑に来たサタン(マタイ4:1-11)と同じものです。
それに気づかず甘い誘惑に乗り、自分の欲しいものを手にしたなら、その結果はサタンに膝をかがめさせられ(マタイ4:8-10)、それによって得るものは、自らの滅びを刈り取ることになるのです。
そういう意味では、神の計画は飽くまでも神ご自身のためのご計画であり、それは普遍のものですが、同時にあなたのためのものであり、その計画にはあなたへの溢れるほどの愛が含まれているのだと言うことを、あなたは知らないのです。いや、忘れてしまったのです。
でなければ、なぜ神の大いなる計画の中に(その中心に)十字架があったのでしょうか?
あれはあなたのためのものだったのではないでしょうか?
そこにはあなたを愛して止まない神の御心が溢れているのではないでしょうか?
そのように神のご計画は愛溢れ、あなたの思うままではないかも知れませんが、神を愛し神の御心に従い生きる者に、あなたが思うよりもはるかに素晴らしく、また価値があり、恵みと祝福の溢れる人生を与えてくださるでしょう。
だから、今主があなたに語りかけている言葉に耳を傾けてみましょう。
最初の人間アダムとエバが罪を犯した時、神から隠れたあの時から、変わることなく神の愛は、今度は今あなたに注がれ、あなたに語りかけています。
「あなたはどこにいるのか(創世記3:9)」と。
【詩篇139:7-18】
139:7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
139:8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
139:9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
139:10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
139:11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
139:12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。
2015/01/30(金)
18:37
今日の聖書
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生きた励まし
【2テモテ4:5-8】
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
この言葉は、主を一身に見つめ信仰の道を歩んだ先人パウロから、まだ若い牧者テモテに宛てた手紙の言葉です。
信仰者として、伝道者として、いかに歩むべきかを二度の手紙の中に、励まし、勧め、証しし、そしてここで自らの最後を感じて語りかけている言葉です。
それは彼がどのように歩んできたのかを現す言葉でもありました。
【ピリピ3:8-14】
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
パウロのこれまでの歩みは、まさしくキリストを知る歩みであり、自らの生きる日々が十字架の死のさまとひとしくなり、そこから復活に達するための歩みであり(2コリント4:7-11,6:1-10)、主の永遠の計画を一日でも早く来たらせることを願い一身に前へと進む歩み(エペソ1:7-14,ローマ9:1-3,11:11-15)であり、上へ天へと望み見て生きる歩み(コロサイ3:1-4)であり、神の賞与を得るための歩み(1コリント3:11-15,2コリント5:9-10)、そして義の冠を受けるための歩みであったのです。
【1コリント9:24-25】
9:24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
9:25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
この冠こそ主イエスがパウロのために被られたいばらの冠であり、パウロはキリストの御足の跡をたどり歩み続けた(ガラテヤ4.19,ピリピ2:17,コロサイ1:24,2コリント11:22-30)のです。
そして彼は、神から与えられた彼の召し(使徒8:15-16,23:11,26:15-18,27:24)を全て終えたことを、その召しと約束だけを握りしめ日々歩み続けたからこそわかったのです。
【2コリント4:16-18】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
彼が何を見て、何を求めて、何を望み、何を喜び歩んだのか、その全ての歩みを通して、神はテモテを励ますパウロの言葉をもって、今私達を励ましています。
私達もパウロがその全てをささげ主イエスを見て、求めて、望んで、喜んで、愛して歩んだように共に歩みましょう。
そして、私達がこの地上の歩みをいつか終えて天に帰ることを知るとき、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。(2テモテ4:8)」と確信と尽きせぬ喜びと主への賛美をもって、天への凱旋へと旅立ちたいと願います。
またこの小さな私達の信仰の歩みをその生きてきた証しを通して、続く信仰者を励ます者となろうではありませんか。
2015/01/28(水)
19:38
今日の聖書
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主への負債
【ローマ1:14,15】
1:14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。
「果すべき責任がある。」という言葉は、「返さなければならない負債を負っています。(新改訳)」という言葉です。
パウロは主イエスに対してこの思い持っているのです。
私の罪のために払われた、御子の命というとてつもない代価。
この御子の命の計り知れない価値を私達は本当に知っているでしょうか。
私達の罪は、どれほどに小さいものに見えても、その罪というもの自体が神に敵対するサタンの性質、サタンから受け継いだもの(ヨハネ8:44)です。
それゆえに、神の御子の命という途方もない価値を持つ代価でしか贖うことのできないほどの、恐ろしいもの(詩篇49:7-9)なのです。それは永遠の滅びに価するもの。
【エペソ2:1-3,11-13】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
[中略]
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
あまりに罪深くおよそ救われるはずのない者。
言葉に尽くせないほどの神の大いなる恵みなどには、とてもとてもあずかるはずのない者。
それが私達です。
私達が主イエスに負っている負債はあまりに大きいのです。
そのことを知る者は、多く主イエスを愛し、その負債を主イエスにこの人生をもって、この命をもって、いかに返すことができるのかということを考えるようになるのです。
【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
あなたはどれほど主に愛されているのかを知っていますか?
この方の愛を知っている者は、この方の渇きを知っているはずです。
救われるべき多くの魂が、死に、滅びに向かうことを悲しみ、断腸の思いで渇いておられるのを。
【ローマ1:16】
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
だからパウロは続く御言葉にあるように、福音を恥とはせず、誰の前にもその福音を隠すことなく証しし、ローマで鎖につながれたままでも福音を語り続け、やがてその福音に命をささげたのです。
それが主イエスに負債を返そうと、その愛に答えようと、パウロがささげた最高の主へのささげもの。
そのために彼は生まれ、そのために彼は生きたのです。
最高の主へのささげもの、そのために私達は新しく生まれたのです。
あなたはどのように主を愛しますか?
その与えられた新しい命をもって。
2015/01/26(月)
17:46
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とりなしの手をあげる
【創世記18:17-33】
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。
主を知らない民が、知らないがゆえに、いや知らないと言えども主を退け主の思いに逆らい、罪を重ね続け、その重なる罪のあまりの大きさ(酷さ)のため、滅びに至ろうとしているのを見た時、私達は何をすべきでしょうか。
そこに自らの家族が居るとするならば、どうでしょうか。
これがアブラハムがこの時置かれていた状況です。
そして今私達の置かれている状況はどうなのでしょうか。
【ユダ7節】
1:7ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。
この国の罪深き状況はすでにソドムとゴモラと同様であり、さらにそれ以上の罪を重ねようとさえしている姿を見て、神はこの国をこのままで放置されることはないでしょう。
刻一刻と自らの選択で滅びに向かう国に、私達も住まいまた家族や大切な人々がそこに生きている。
【マタイ】
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
だからこそ、主はこの国の滅びの日が遠くないことをあなたに教えられていないでしょうか?
アブラハムは祝福を受ける者として、また主の正義と公道が彼を通して現されるために、主に立てられた者であり(創世記18:17-19)、私達も救われてアブラハムの祝福にあずかる者となった以上、同様に主の正義と公道が私達を通して現されることを主は願っているでしょう。
つまり、アブラハムと同様に私達はこの国を主から与えられており、この国を主の正義と公道によって治める者としての責任を負っているのです。
だからこそ、主はご自身の計画を私達に隠されることはない。
【アモス3:7,8】
3:7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。
だから、今なおさら主の前に、この国の滅びのために、私達はこのアブラハムのようにとりなす必要があるのです。
この国が神に立ち返るように。
アブラハムは何度も何度も主に食い下がり、とりなしを止めることなく、五十人の正しい人から始まり、たった十人の義人さえ居れば、主の裁きがとどめられるようにまで、引き下がることなく、あきらめることなく、とりなしました。
それは主の前に、なりふり構わない必死のとりなしであったと言えるでしょう。
おそらくは、ロトの家族だけで六人はいたのですから、ただあと四人の義人が居れば、ソドムとゴモラの土地は滅ぼされないで済むと、アブラハムはそこまでとりなした。
しかし、結果はその十人にさえ到底至らず、この裁きを免れ生き残ることができたのはロトとその二人の娘のたった三人でした。
ですから、主にとりなしを祈る時、自らのことのように主にとりなし、最後の一歩に至るまで予断をゆるさず、自らの命さえ投げ出して、とりなす必要があるのです。
【出エジプト】
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば--。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
いや、このとりなしはそもそもは神ご自身の心なのです。だから主イエスご自身が命を十字架にささげ、究極のとりなしをなされた。
神は私達が滅びることを願ってなどいないのです。
むしろ罪から立ち返り、救われることを切望しておられるのです。
【エゼキエル】
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。
主はこの滅びへの破れ口に立ちとりなす者を待っておられるのです。
そうです。主はご自身と心一つにして、自らのことをかえりみず、その命をささげとりなしの祈りを祈るのを。あなたの祈りを待っているのです。
【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
あなたとあなたの大切な人々の住むこの国が、神の前に立ち返り滅びを免れるように共に祈ってまいりましょう。
2015/01/22(木)
07:31
今日の聖書
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御言葉に生きる
【詩篇119:111,112】
119:111 あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。
119:112 わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。
詩篇119篇は御言葉について、ヘブル語のアルファベット順に並ぶ詩篇の集まりで、一つ一つの詩篇はそのアルファベットを最初の一文字とした、とても美しいヘブル文学の形式で語られています。
その中にある、「さとし」「戒め」「おきて」「定め」「知恵」「約束」「あかし」などの一言一言が御言葉を表す言葉であり、御言葉のあらゆる側面を知ることのできる詩篇です。
御言葉は主イエスそのものであり、私達の内に住まわれる聖霊(キリストの御霊)が御言葉を照らし出すとき、私達は主イエスご自身と交わるように親しく御言葉を知ることができる。
それが御言葉であり、この詩篇の中で作者があらゆる人生の場面において、この御言葉をいかに愛し、いかに深く交わり、いかにその人生を支えられ、導かれ、御言葉を生涯守って生きることがいかに幸いか、喜びなのかを、生き生きとした御言葉との交わりを通して語っているのです。
まさしく、それが生ける御言葉なる主イエスとの交わり。
【ヨハネ10:2-5】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
聖書を読んでも最初はわからないことも多いでしょう。しかし、この御言葉との交わりをあきらめずに主が語りかけられることのみ、今心に響きわかることのみに静かに耳を傾けて行くのであれば、その意味はやがて理解することができます。
まさしく、羊は羊飼いの「声を知っているので」必ず少しずつでも聖書から主が語られる声を私達は聞くことができ、それに導かれて生涯を歩むことができる。「彼について行く」ことができるのです。
そのようにして私達は、律法主義的ではなく愛の関係において、この御言葉を守ることができるのです。
【イザヤ29:13】
29:13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
もしも、私達に主イエスとの交わりを抜きに聖書を守ることだけを、または聖書を、そのために知ることだけを目的とする、宗教的な生き方だけを信仰と言うのであれば、それは主から心離れ、形だけのものとなるでしょう。
主から心離れて御言葉を知ることはできませんから、人からの知識や学び、メッセージなどを通してしか主を知ることができない。
それでは、それが主イエスからの声なのか、別の者の声なのかを知る術はないでしょう。
聖書の御言葉のみが偽ることのない真理ですから、この声を聞かずして、羊飼いの声を聞き分けているということはできないのです。
ましてや聖書を読まずに信仰生活を送ろうとすることなど、なおさら同様のことが言えます。
【2テモテ4:3,4】
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
終わりの日に向けパウロがテモテに書いた警告は、今主の御言葉との直接的な深い交わりを避けて歩む者達に、強く語られています。
つまりその警告は、まことの羊飼いではない者の声を聞き分け、滅びに惑わす道から立ち戻り、私達のために命をも捨てる真の羊飼いの声のみを聞き、導かれて歩むよう勧めているのです。
【ヨハネ10:10,11】
10:10 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
さあ、今日も聖書を開け、あなたに語りかける主の愛をしっかり受け取りましょう。
この御言葉があなたの生涯を支え、最良の歩みへと導くのですから。
2015/01/15(木)
07:24
今日の聖書
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祝福の地に生きる
【申命記11:10-16】
11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
11:13 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、
11:14 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、
11:15 また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
11:16 あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。
エジプトは一年を通して雨があまり降らない土地であり、年に周期的に起きるナイル川の洪水を利用し灌漑することによって、初めて農業を行なえる土地でした。
洪水時に貯水し、洪水が引くと排水して耕地とし、作物を植えるのです。
定期的に貯水と排水を繰り返すことによって土壌の塩分が除かれ、周期的に肥沃な土が堆積されるという意味では豊かな土地ではありましたが、灌漑を人の手でしなければならない、「あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。(申命記11:10)」とあるように、非常に労力のかかる土地でした。
つまり、世を現すエジプトの生活は常に人の力によって生きなければならない、非常に苦労の多い、あるいは人が自分の力で生きることを止めてしまえば、生きることのできない過酷な生き方です。
しかし、主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、彼らに与えた約束の地はそうではありません。
「しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。(申命記11:11)」とあるように、山があるからそこに雲がぶつかりその下に雨が降り、谷があるからそこに川が流れる。天然の地形に恵まれるから、ちゃんと必要なときに雨が降る、人の力によらずに潤った土地、「乳と蜜の流れる国(申命記11:9)」だったのです。
主に救われた私達の生き方は本来このようなものです。
私達の努力には一切よらず、主の与えたもう主の豊かさだけで、全ては満たされ潤う生活。
世から出て、主の御手の内に生きる生活とはそのような約束の伴う土地なのです。
しかし同時にそれは、「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、(申命記11:13)」とあるように、主の御心(「わたしの命令」=御言葉)に従い生きて、主を全身全霊を以て愛することによってもたらされる、主の祝福であるのです。
それは言い換えるのであれば、肉に歩まず御霊に導かれて歩む(ローマ8:11-17)、信仰による生活。
しかし、一度自分の力による生活、つまり肉の欲を満たす肉による生活(ガラテヤ5:16,17)を送ろうとするのであれば、それは世を愛する(1ヨハネ2:15-17)生き方であり、エジプトに逆戻りし、エジプトの奴隷生活つまり世の奴隷、罪の奴隷として生き続ける生活が待っているのです。
それは神から心離れ、欲を満たす代わりに祝福を奪い取りのろいと変える神々に仕え、拝む生活(申命記11:16)となる。
何と恐ろしいことでしょうか。
自分のために生きることと、主のために生きること。
自分の欲を満たすために生きる生活と、神を愛し神の御心に従う生活。
この境目は紙一重ですが、その結果はエジプトの生活と約束の地の生活以上の大きな差、祝福とのろい、命と死という大きな結果の違いとなって現れるのです。
あなたは今年、年の始めから年の終りまで、どのように過ごすことを望まれるでしょうか。
私はあなたに、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。(申命記11:12)」
という信仰の地に生きられることを望んでいます。
どうかこの年も主の祝福があなたの上に豊かにありますように。
※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【ローマ8:11-17】
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
【ガラテヤ5:16,17】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
2015/01/14(水)
11:15
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