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【使徒行伝19:1-6】
19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
19:2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
19:3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
19:4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
19:5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
19:6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。

「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」
この質問はとても単刀直入に感じます。
しかし、だからこそこの質問の内容がとても重要なことであることがわかります。
聖霊のバプテスマを受けることをパウロがいかに重要なこととして捉えていたのかはその後の質問と、行動によって知ることができます。
その質問のやりとりは、誰の名によりバプテスマを受けたのかという言葉が続き、その違いを明確化するものでした。
つまりバプテスマのヨハネが授けたのは水により悔い改めのバプテスマを授けたのですが、主イエスの名により、水の洗礼を受ける必要があった。
それは意味が全く異なるバプテスマであったからなのです。

【ローマ】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

この主イエスの名によるバプテスマとは、同じ水のバプテスマですが、主イエスキリストの死とよみがえりにあずかるバプテスマであるということがわかります。
つまり主により新しい命を授けられ、これまでとは異なる命(これまでの命とは生来の命であり、すでに死につけられている)により生きる、全く新しい者として生まれたことを現すものです。
しかし、パウロはそれだけにとどまらず、さらに彼らの上に手を置いて、結果彼らは聖霊のバプテスマを受けました。
パウロがそのような行動をとった理由は、バプテスマのヨハネ自身が語った言葉の中に明らかにされています。

【ルカ3:16】
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」

バプテスマのヨハネは、主イエスについて証しをすると同時に、バプテスマのヨハネ自身が授けているバプテスマ(水)と、主イエスが授けるバプテスマ(聖霊と火)の性格が根底的に全く違うということを語っています。
そして、それは人によっては決して授けることのできない、神によらなければ授けることのできない性格の、ありえないバプテスマを語っているのです。
だからこそ、このバプテスマは天的なものであり、特殊で重要なものであることがわかるのです。
主イエスは天に上って行かれる直前にこのバプテスマの重要性を語りました。

【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

【使徒行伝1:8】
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

ここにこの聖霊のバプテスマを受ける者は天(上)から力を授けられるとあります。
この力は『デュナミス』という言葉であり、ダイナマイトの語源にもなった、爆発的な力を意味する言葉です。
つまり、天的な(神的な)絶大なる力を授けられるものそれが聖霊のバプテスマであり、その力により私達を地の果てにまで主イエスの証人とするものなのです。
いや、だからこそ、初代教会の兄弟姉妹が爆発的に世界宣教へと拡大していく力を与えられていたことは使徒行伝の記述を見れば明白なことでしょう。
またこの「証人」とは殉教者の意味を含む言葉でもありますので、自らの命をも顧みないということでもあります。
が言い換えるなら、自らの命よりもはるかに価値のあるもの、天の御国とその御座に居られる王なる方、主イエスという永遠に最も価値あるものを見させる力が私達の内に働くということがよくわかるのです。

【使徒行伝7:54-60】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

パウロはこのステパノの死にゆく様を恐らく間近で見た者であったでしょう。そのステパノに主イエスが十字架の上で言われた言葉と同様の言葉を言わしめた力を。
天の御国を見た者が、喜びに満ちて神に命をささげる様を彼は間近で見たはずです。
いやそればかりでなく、後にクリスチャンの熱心な迫害者となったパウロは、多くのクリスチャンを迫害する中で、神から注がれた証人としてのこの絶大な力を、最も近く目の当たりにし続けたことでしょう。
だから、この聖霊のバプテスマを受ける重要性を最もよく知っていた。いや自分自身が後にこの著しい力に押し出されて宣教し続けたのです。
だからこそ彼は、今日の聖書の箇所で最初に彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」と尋ねたのです。

今この聖霊のバプテスマということが教義の分裂ということだけでタブー視されがちです。
しかし聖書にはこの聖霊のバプテスマは現代の時代には存在しなくなったとか、著しい聖霊の働きは今は見られないといったようなことは、聖書のどこを探しても語られていません。
確かに全ての霊の働きが神からのものとは限りませんから、よく吟味する必要はありますが、しかし全ての霊的に著しい働きが悪霊からのものということは神にゆるされていません。

【マタイ12:31,32】
12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

むしろ、聖霊のバプテスマを受け、さらに聖霊に満たされ続ける歩みの重要性の方がはるかに多く聖書には語られているのです。
聖書に語られている御言葉はそのまま信じるに価します。いやそこからしか、神を知り神に近づく道は存在しないのです。
むしろ終わりの時代主が再びこの地に来られる時に、主への信仰がなくなっていくことを「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか(ルカ18:8)」と、主は気にかけられているのです。
ですから、私達は今一度この聖書に書かれている御言葉を、そのまま信じるという立場に立ちましょう。
そして、主イエスがこの地を去られ天に上られる時、私達に託した主の願い大宣教命令と共に、そのために「上から力を授けられる(ルカ24:49)」よう主が語られた御言葉をそのまま受け止めたいと思います。
さあ共に、主のご計画が地になり、この地を、この国を、主が勝ち取られるために、大いなる主の絶大なる力が注がれる必要があることを主に訴えましょう。
主より聖霊のバプテスマ、上よりの力を授けられるよう、共に祈ろうではありませんか。
2015/01/13(火) 13:49 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【詩篇34:18】
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

私達の性質は根本が高慢です。
全てが神により与えられたもの、全てを成したのは主であるのに、私達はそれを自分の何かのように、主の栄光を自らのものとして誇ります。
自分の経験、知識、力、信仰、自分の何ものかで成し遂げた、あるいはその何ものかがあるからこそ、今日をまた毎日を生きることができると考える。
残念なことに私達はそれに全く気づきません。私達は毎日自然にそのように生きている。
私達は人としての成り立ちの根本を忘れ、神に背中を向けて、自らを誇り、自らの力により生きていると勘違いして生きている、それが私達の姿です。

忘れてしまっているのです。知らないのです。
自分が一被造物に過ぎず、塵のような存在であり、創造主である神に生かされて生きているということを。
自分が自然に神を必要としないで、だからこそ神に背中を向けて生きているのだということを。

聖書にあるヨブという人物は、神が誇るほどに義人でありました。彼は自分の信仰により、罪を犯さないように生き、その正しい行いのゆえに神はサタンに彼の義人であることを「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか(ヨブ1:8)」と誇りました。
ですから、彼は子供たちも、持ち物も、自分の健康でさえ失い、全てを失ってても、「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった(ヨブ2:10)」のです。
彼は行いに於いても、言葉に於いても正しかった。
しかし、彼は彼を見舞いに訪ねた友人に罪を犯したからこの苦しみにあったかのように責められ苦しみます。そして苦しんだからこそヨブは、その言い分に於いて自らを正しい(義)として語り続け、神よりも自らを正しいかのように主張し、神に罪を犯すのです。

【ヨブ33:9-11】
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、わたしのすべての行いに目をとめられる』と。

しかし、彼の全ての行いも、全ての信仰を守ることができる生活を与えられていたのも、その生きる全てのことが、その毎日一刻一秒が神により与えられたもので生きていたことを、むしろ神に与えられないで生きれるものなど何もなかったことを、神ご自身がヨブの前に現れ、そのことを現されるのです(ヨブ38-41章)。
そうです。私が何を自ら誇って生きていたのかを知る。
神ご自身が私達に臨まれ、私の全てが神の前に光の内に全てさらされたなら、私達はひとかけらも自らの何ものかによって生きてきたなどと言うことはできないほど、全ての全てが神によって与えられていたことを知るでしょう。
神はどれほど私達を愛してやまないのでしょうか。
さらに神の前に自らが義人として生きてきたことが、神の義によるものであったことを知るでしょう。
つまり、神よりも正しいと自らを主張するほどに罪深い(神よりも自らを誇り、神に敵対するサタンの性質に満ちた)私達を、その罪をも、神は主イエスの贖いによって赦され、永遠に滅ぶべき私達の命を救われた。
その十字架の代価がなければ、私達は、その罪のゆえに、永遠に滅びなければならない存在でしかなかったことを知るでしょう(ヨブ33:19-30)。
だから、その信仰でさえ神から与えられたものであることを知る。
私の中に生きるキリストが持つ信仰が、内から働く聖霊により働くからこそ、日々信仰が保たれているということを知るでしょう。

【1ペテロ1:3】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。

だから、全てが主から与えられていなければ私達には何もないのです。
この方がいなければ、私達は一秒たりとも生きることができないのです。
私達はそのことを忘れているから、みずからを、誇ることができるという、どこまでも愚かな罪深い生き物なのです。

それを知るためには、私達は主の前に砕かれなければならないかも知れません。
積み重ねた罪が高く、自らを高く誇らせるなら、私達は主の前に砕かれなければならないでしょう。
でなければ、私達はどこまでも自らを高くして神に対立するサタンと同じ運命をたどり、永遠に滅びる存在となるしかない。
けれども、打ち砕かれ、自分自身が本来の塵に過ぎない存在であることを、心砕かれ知った者に主は近づくことができる(罪は神を遠ざけるため)のです。
だから、たましいが悔いくずおれて初めて、主は私達を救うことができるのです。

それでも、主に自らを主張する自分がどこかにいるでしょうか。
主のあわれみにすがりましょう。
主が私を造り変えてくださるように。
2015/01/12(月) 22:26 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【ヤコブ4:13-17】
4:13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
4:15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
4:16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
4:17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。

新しい年を迎えると、昨年の反省などを踏まえながら、今年こそと目標を掲げ、一年の計画を立てたり、また人によっては何カ年計画といった形で、先の日の計画を立てるという方もいるでしょう。
ここで聖書が、このような人の性質について前提として語られているのは、人の命は主により定められ、その生きる道も主により造られるということです。
つまり、自らの計画を立てる大きな背景には、人は自分の力で生きていると思っているということです。
自分の力に頼り、あるいは人々の協力、助けもあるかも知れませんが、いずれにしても自分達の力によって、計画を立て、成し遂げていく。
一見すると、兄弟姉妹や教会といった単位で見るのであれば、それは神の計画、神の栄光に見えるかも知れません。
しかし、それが全て自分達の力で成し遂げられるのであれば、そこに神が働く隙が存在していません。
気がつけば神無しで物事がどんどん進んで行っている。そのようなことはよくあることです。
もしもそのようなことに少しでも気づき、あるいは行われている全ての計画に神の喜びが満ちず、また教会に、自分の信仰生活に、閉塞感が漂うようになっているのであれば、一度立ち止まって神に祈るべき時ではないでしょうか。
もしかすると、そこには人の力が満ち、人の栄光はあるけれど、神の働く余地が全くなくなっているのかも知れません。

【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

神の栄光は私達の弱さや欠け、無知など、私達の無力さ、小ささに現されるものであることを忘れているのかも知れません。
水は高いところから低いところに流れるように、主の恵みは低いところに注がれます。(詩篇113篇、ルカ6:20-26、1コリント1:26-31)
私達は知らず知らずに神の前に高慢になっているのかも知れません。
勘違いをしてはいけません。
私達の計画のために神が居られるのではありません。神の計画のために私達は生きている(2コリント5:14,15)のです。
私達は神の御心のままに造られ、御心のままに生かされ、主により保たれている(コロサイ1:15-17、エペソ1:3-12)のです。

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

主のために生きようと願うものには主は私達に主の御心を明かされます。
主の大いなるご計画の一端を私達が担うために。
それは祈りの内に、あるいは聖書を通して、あるいはメッセージや人の言葉を通して、主の思いを知り、その思いを我が思いとして担い、主からの召しとして、それを受け取る。つまり主のご計画を私自身がどのように担うかということを知るでしょう。
それは人の思いをはるかに超え、自分の力では到底できないようなものでしょう。しかし、だからこそ神の計画、神があなたに何もないからこそ働かれる計画なのです。

【マタイ6:33,34】
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

ならば、そのような人にはわからないようなことを、できないようなことを成すために、どのようにして今日一日を過ごしたら良いでしょうかと問うでしょうか。
だからこそ、私達には明日のことがわからないのです。
主と共に歩くとはそれほど大きなことであり、今日一日のことをするので充分なほど、私達にはそれぐらいの能力しかなく、またそれほど大いなる一日を私達に主は与えて下さっているのです。
今日を精一杯、主に忠実に心からの愛と誠実を以て、主の御心を思い、願い、祈り、御心が成るように生きるだけで、充分大変なこと、それ以上の能力は私達には与えられていないのです。
どれほど小さなことに見えても、主の御心を思い忠実に生きる。
この一年も神の御心が成るように、まず今日一日を誠実に積み重ねる、大切な日々を歩んで下さい。
主の祝福を心よりお祈りしています。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【詩篇113篇】
113:1 主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主のみ名をほめたたえよ。
113:2 今より、とこしえに至るまで主のみ名はほむべきかな。
113:3 日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。
113:4 主はもろもろの国民の上に高くいらせられ、その栄光は天よりも高い。
113:5 われらの神、主にくらぶべき者はだれか。主は高き所に座し、
113:6 遠く天と地とを見おろされる。
113:7 主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、
113:8 もろもろの君たちと共にすわらせ、その民の君たちと共にすわらせられる。
113:9 また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ。

【ルカ6:20-26】
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
6:21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

【コロサイ1:15-18】
1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。

【エペソ1:3-12】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
2015/01/07(水) 19:14 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
【出エジプト12:1-20】
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。

聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
(新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ(年の頭の意)」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。(民数記29:1)」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。)
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。

【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。

【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。

あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。

【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
2015/01/04(日) 17:59 今日の聖書 PERMALINK COM(0)
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